完全なる人間 (第5章)


機械仕掛けの神・作
笛地静恵・訳


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 約一時間というもの、ジェイクは、この事態は何と形容したら良いものかということに、
ずっと頭を悩ましていた。


 「プレイボーイ・マンション」を襲った大地震。

 それとも、「巨大宇宙人の破壊と恐怖」の快感。

 もしかしたら、それは、ここで起こっていることの、そのままの表現で充分なのではないだろうか。



 六百メートルの標高を持つ、二人のレスビアン。



 
肉体の山の、真剣な睦み合い。



 それを、標高0メートル地点から、目撃しているという事実。 

 どう言おうと、彼がこの希有な経験から、膨大な量の
悦楽を提供してもらっていることは間違いなかった。

 過去三時間に、少なくとも三回、命の危険にさらされた。
それが何だと言うのだ。 死は、数十センチの、間一髪の身近に常に迫っていたけれども。 

 すべての生物が求める、三つの欲望があるという。

 一番目は、食欲だ。 飢餓の充足は、もっとも基本的な欲望である。 

 二番目が、安全な巣の確保だった。 巣がなくては、他の要素も一瞬にして、奪われかねない。

 三番目は、もしかすると前の二つほどには、必須の物ではないのかもしれない。
しかし、それが、人間がこれまでになしたすべての行為の、動因になっていることは間違いないだろう。

 ジェイクは、刀の刃の上で踊っているようなものだった。
しかし、これほどに自分が生きていると感じたことは、これまでに一度だってなかった。

 これほどに欲望を解放したこともなかった。 


* * *


 一時間前に、明かりが消された瞬間に、ジェイクは本能が自己に命じるままに、即座に行動を開始した。
ひたすら逃げようとした。

 どうしてそうしたのかといえば、そうしなければならないと思ったからだった。
しかし、リンゼイの性器の外側に這い出ようとしている内に、彼女の腰が持ち上がっていった。

 そして、恋人が与えてくれる一定のリズムのままに、動き始めたのだった。
全世界が、彼女の毛穴から吹き出る汗のために、ぐっしょりと濡れそぼっていった。

 彼には、手でしっかりと掴むに足る場所が、どこにもなくなっていた。

 下腹部の皮膚の上を滑って転んだり、そのまま滑落していった。
結局、肉で充満した裂け目の中に、落ちていった。 


 そこは圧倒的な大きさだった。

 彼を一呑みにしようとして、待ち構えているのが感じられた。


 足元の迷宮の内部に溜まった湿気と、脈動を感じた。

 彼は視点を上空に引き戻した。
とてつもなく巨大な、何だか胃袋のように見えるものがそこにあった。

 天そのものが、彼の頭上に降下してくるようだった。

 
巨大な重量感を伴って垂れ下がっている。

 それが、こちらに接近してくるのだった。


 ケイトが、自分の
乳房を道具として使って、必要な行為を実行しようとしているのに違いなかった。


 彼は、不思議に透明になった明晰な意識で、それを悟っていた。
ジェイクという男は、女の乳房の下敷きになって、今、死ぬのだ。 

 彼は胃袋が、ゆっくりと移動するさまを凝視していた。
上空のすべてを、覆い隠していった。 天が降下してくるような壮大な眺めだった。

 空気が圧迫されて、気圧が高まっているのだろう。


 低音の
ご ご ご ご という、唸るような耳鳴りがした。


 しかし、胃袋はそのまま上空を通過していった。
それは、小さくなりながら、引き締まった乳房にその形を変えていった。

 そして、二つ並んだ乳房に姿を変えていた。
やがて赤い髪の一房と、もっと赤い舌とに変化していた。 

 彼の周囲の世界全体で、戦闘が開始された。


 
サッカーの競技場のサイズのある舌の筋肉。


 それが、彼をその体の上に乗せ気がつきもしない女主人の両の太ももの上で、
蝶の怪獣のように、軽やかにして、すごい速度で舞い踊っていた。

 濃厚な愛撫をしていった。 よだれを大量に垂れ流していった。

 彼は渾身の力をこめて、筋肉の割れ目から自由になろうと苦闘していた。
しかし、それが虚しい行為であることも、充分に承知していた。

 今では安全な場所など、世界のどこにもなかった。

 赤い舌が、彼からわずか三十メートルの彼方の場所で先端で立った。

 そのままの格好で、ふいに奇妙な舞踏を開始したにしろ、ことさら仰天もしなかった。
ずるずるという音を立てながら、彼のいる上方に、すばやい動きで這いずってくるのだった。


 
そして、彼を飲み込んでいった。



 ケイトの口腔内部の暗黒に、包み込まれていた。







 全世界が、シナモン入りの炭酸飲料の「シュワップス」の芳香に満たされていた。
「ゴールド・シュラッガー」だろうな。 彼は酒の銘柄を考えていた。

 不思議に、自分が追い込まれた窮地については、何の感想も浮かんでこなかった。
熱くて湿っていた。 一ミリセカンド毎に、情況が絶え間なく変化する場所だった。

 温度も湿度も触感も異質な領域が、目まぐるしく周囲で交替していった。
自分にできる最良の賭けは、じっとして動かずに、なるがままにこの時を
やり過ごすということだと観念していた。

 彼のサイズは、一個のゴミと同じだった。
希望的には、体毛の一本か、歯に挟まった食べかすのようなものに過ぎないと、
ケイトに判断してもらうことだった。

 何かの力が解放してくれるまで、そのままケイトの舌に張りついているしかないのだ。


 全世界が、即座に明るくなった。
そう、相対的には、かすかな光に過ぎなかった。

 しかし、暗黒の中にいた彼には、充分に眩しかった。
その変化が、もう一度起こった。


 リンゼイの完全に大きく開いた性器が、眼前に聳えたっていた。

 舌と一緒に、内部に挿入されていた。

 再び暗黒が訪れた。 塩の味がした。

 そして、ああ、そこは途方も無く
エロティックな場所だった。



 彼は、自分が射精するのを感じていた。
それは、リンゼイがこの場所に噴出している、大量の愛液の洪水と比較すれば、
まったく少量に過ぎなかったけれども。

 それに、ケイトが分泌している、大量の唾液が交じり合っていた。

 液体の世界だった。 

 舌は滑りやすい肉の壁に沿って滑走していた。 いきなり、彼は自由になっていた。

 もし、600メートル以上の身長を持つ少女の、遥か体内18メートルの、
膣の底に放り出されたことを、そう言っても良ければだが。

 今、リンゼイの血管をとめどなく流れている、大量のエストロゲン(卵巣から分泌される発情ホルモン)は、数百万人の更年期の女性を、苦しみから救済するだけの分量があるだろう。

 彼女の血管の拍動は、至るところに遍在していた。
全世界に大量に噴出している愛液は、ペニスを待ち焦がれて歌う泉のようだった。

 ここに溢れて溜まっている。 だが、それがこの場所を訪問することはないのだ。 決してないのだ。
彼は、こんな大地の底であろうと、まだ薄い空気が残存していることを知って驚いていた。
風も吹き始めていた。

 膣の筋肉が、空気を吸引するほどの力を発動させているのだ。
子宮が種族保存の本能が命じるままに、来るはずのない精液を、飲み込もうとしているのだろう。 

 それが、皮膚感覚で分かった。 もちろん、ケイトは女性だ。
他のほとんどの男どもと違ったお道具を使っていた。

(サム・キニソン博士に感謝を。彼がその地点を、簡単なアルファベット一字で、命名してくれたことにも)
ケイトは、リンゼイのスポットを、良き反応と快感を与えるために、舌の先端で刺激していった。

 Gスポット攻撃が、失敗することはほとんどない。

 特に、クリトリスの愛撫と併用するときには、その効果は絶大だった。 

 彼は、最後の瞬間に、リンゼイによって発生した潮吹きによって、
物凄いスピードで外部に噴出されていくのを悟っていた。

 しかし。 神よ。 感謝を。

 この飛行によって、ケイトの下唇よりも、だいぶ下の位置に、着地することができたのだった。

 彼女の顎に激突していた。 そして、毛布の上に、跳ね返ったのだった。 
彼は、その場に倒れて上空を注視していた。 大きな物音にも、耳を傾けていた。

 しばらくして、ケイトが大仕事を終了した。
それから、上半身を持ち上げて、恋人の脇に並んで寝ころんだ。


 疲れてはいるようだったが、幸福そうな顔だった。 

 彼女たちは、五分間の休憩の後、第二ラウンドに突入していった。

 今度はリンゼイの方が、同じことをして、お返しをする番だった。 


* * *


 朝が開けるのは、遅かった。 彼は、全身で伸びをした。


 特等席から、四本の巨大な白い脚が重なりあう、雄大な光景を眺めていた。

 自分がどのようにして、最後にベッドのこの場所にまで辿り着いたのかを、思い出そうとしていた。
たぶん、どこかでリンゼイの髪の毛に、絡まってしまったのだ。

 あるいは、ケイトが横たわっているのを眺めていて、その乳首を、どのくらいの力で抱き締めて
やれるだろうかと考えて、乳房の上を登りだした直後のことだろうか。
そこで、リンゼイの口に、いきなりしゃぶられたのだった。

 原因が何であったにしろ、二人と過ごしたような楽しい夜を、送ったことは今まで一度もなかった。
立ち上がると、ベッドの壁の近くの、自分にとって一番安全な、いつもの場所に移動しようとしていた。

 しかし、ケイトのベッドルームとは、どこか様子が異なっていた。
彼は、むしろ……。 その時、凍り付いたように、その場所に立ち止まった。 畜生。 


 ここは、ケイトのベッドルームではなかった。


 どこかのホテルの一室だった。
彼女たちは、夜の内にホテルに移動したのに相違なかった。 それが、唯一のこたえだった。 

 彼は、ケイトと一緒にいなければならないのだ。 彼女が、家に帰ることは明白だった。

 リンゼイの巨大な肉体の方が、先に動き始めた。
彼女は、恋人の上に屈み込んでいった。 優しくキスをした。 

「起きてちょうだい。 わたしたち、ちょっと寝過ごしたみたいよ。 あたし、飛行機に遅れちゃうわ」
 彼女はベッドから跳ね起きると、大股でバスルームに入っていった。

 くそ、彼女は魅力的な少女だった。

 モデルのように鍛えられた、筋肉質の肉体の持ち主だった。


 彼は考えた。 ラッキーなのは、ケイトの方だったのだ。 ケイト?

 彼女も、起き上がっていた。 ベッドから遥か彼方の場所で、着替えを始めていた。

 これは、良い情況ではなかった。 彼は何をなすべきか、選択を迫られていた。
なんとしてもケイトと共に、いなければならないのだ。

 ホテルの一室に、置き去りにされるのはまっぴらだった。
毎日メイドが掃除に来るような、きれいすぎる場所だった。

 何よりも、彼は自分の家を愛していた。 特に、その同居人達を。 


 自分が、今何を探さなけらばならないか、やっと分かった。
バッグを求めているのだ。 ベッドの端に立って、ケイトの方を見た。

 彼女はバッグを持っていない。 床の上には、二つのバッグが並んでいる。

 確率は、五分五分だった。 

 彼は、賭けをした。 シーツを滑り下りた。 小さな灰色のバッグの中に入った。
すばやく動いた。 求めている物がすぐに見つかった。 財布だった。

 内部に潜り込んで、運転免許証の名前を読んだ。 気分がしずんだ。
「モ・ー・ガ・ン・リ・ン・ゼ・イ」とあった。 
また迅速に行動した。 早くここから出て……。 

 バッグは、上方に、乱暴に引き上がられていった。
大量のタンポンと、化粧品と、その他のこまごまとした日常品の底に埋没していった。

 それでも、OKだった。 車に乗り込んだら、ここからすぐに出れば良いのだ。 
言うまでもなく、乗車すると、彼女たちは、リンゼイのバッグをトランクの中に入れた。


 そう簡単な一日には、ならないというぞという予感が、彼にはあった。


* * *


 空港への道すがら、次の計画を練っていた。

 これは、一か八かの捨身の計画だった。 しかし、それで、うまくいくはずだった。
リンゼイのことが、気に入ってはいた。 いかし、北キャロライナにまでは、行きたくなかった。
ケイトとジュリーと。 そして。 ジェインと一緒に暮らしたいのだった。 

 もう一度、財布の中に入った。 大事なのはタイミングだった。 

 それから、飛行機の搭乗手続きの場所に付くまでは、永遠のように長い時間が経った。
とうとう、空港の職員が、IDカードの提示を求めた。 今が、その時だった。 

 財布が、外部の世界に出ていった。
彼の賭けは、ケイトがリンゼイだけを、一人で行かせるはずがない、という一点に掛かっていた。

 彼女は、恋人に身を寄せているのに違いなかった。 

 財布が開かれた。 かねて目を付けていた、彼女の青いトパーズの指輪の玉の上に跳躍した。
小さなダイアモンドを掴んだ。 ともかく、ダイアモンドのように、まばゆく光っている玉だった。 

 モーガンリンゼイ嬢の左手が、紙の上を小さな円と大きな円を描きながら、
自分の名前を署名するのを目撃していた。

 すべては、ワープ2の速度で、迅速に実行されていた。

 目眩のために気を失いそうになった時に、待望の光景を目にした。
それは、あのケイトの豊かな赤毛の海だった。 

 二人の恋人たちは、さよならの抱擁をしていた。

 そうしている内に、彼は全力でケイトに跳躍していた。 
着地した。 冷汗が出た。 彼女のシャツの首筋の背中の方だった。

 ブラを止めている背中の紐の、わずか下方にぶらさがっていた。 深いため息を付いていた。

 間一髪の所だった。 


* * *


 ドライブは、それほどきついものではなかった。

 彼の努力は、主に彼女の背骨に沿って開いた空間に、身体を移動させることだけだった。
ケイトが、ドライバー・シートに背中を凭れさせた時に、磨り潰されないためだった。


 自問自答せずにはいられなかった。
どれかの危ない瞬間の一つで失敗していたら、自分はどうなっていただろうか?

 もし彼女たちが、あの時に、ああしていたら。 こうしていたら。

 そんなことを、あれこれ考えていたので、ケイトが
ブラをいきなり取り外した時には、
何の準備もしていなかった。 だから、自分が、スプリングの入ったような表面に着地して、
何の怪我もしなかった時には、むしろそちらの方に驚いていた。

 ケイトは、運動の準備の方に専念していたので、彼には何の注意も払っていなかった。
彼は自分がランニング・シューズの中に落ちたことに、やうやく気が付いていた。

 いきなり、警告もなにもなく、ケイトの勇壮な姿が、彼の頭上に聳えていた。
緑の伸縮性のあるスパンデックスのスポーツ・ブラと、
黒い同じくスパンデックスのバイカー・ショーツのほかには何も身につけていなかった。


 彼女の右足の裏が、その肉体の美を覆いかくした。


 すぐにコットンに包まれた足が、彼のいる空間に充満していった。


 圧迫された空気が、彼を靴の爪先の方に押し込んでいった。
感謝せずにはいられないものがそこにあった。

 彼等が歩き始めると、靴の前部にあった、ごく小さな空間が、
彼女の足に踏み潰されるという危険性から、完全に守ってくれることが分かったのだった。

 直径が三メートル六十センチもある小指による圧迫死から、逃げることが出来たのだった。 

 しかし、そうであっても、彼は、靴の布を織っている縄のように太い糸を伝わって、
ケイトの親指と中指の造る、より広大な空間へと移動していた。

 そして、彼女のその日の全練習過程が終了するまで、その場所に留まっていた。
汗と足の匂いにふらふらになっていた。 すべてが、家に帰るまでの辛抱だった。 

 そして、彼の祈りを聞き届けてくれたように、彼女は靴下を脱いでくれた。
彼も一緒に付いていった。 一秒も考える間もなく、運動用のバッグの中に、放り込まれていた。

 シャワーを浴びた後で、彼女は、運動バッグを持たないで、二階の部屋に上がっていった。
彼のために、その晩は衣服を洗濯機に放り込まないという、親切心を発揮してくれた。

 リヴィング・ルームにバッグを置いておいた。

 彼の家の出口まで、わずか一メートルの距離だった。 


 転げ落ちるように、バッグから這い出た。 家路を辿った。
ゆっくりと。 疲れ切って。 すっかり弱り切って。

 家の方へ、一歩一歩。 ようやく部屋の中に入った。
今まで呑まず食わずだった、胃袋の欲望を満たしてやった。


 どこにいて、何をしたかという、さまざまな思いが脳裏をよぎっていた。
座ったままいびきをかいていた。




 満面の笑みが、その顔に浮かんでいた。 




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完全なる人間
第5章・完



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