完全なる人間 (第7章)
機械仕掛けの神・作
笛地静恵・訳
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しばしの間。 砂漠を放浪していたと、想像していただきたい。
あるいは、密林を彷徨っていたとしても良い。
もし、その方が共感できるというのならば、宇宙空間を漂流していたと言っても良い。
なんにせよ、ともあれ世界から隔絶した場所に、丸二年間というもの、
孤独の生活を余儀なくされていた。 そして、誰とも話を交わすことがなかった。 一言も。
私たちのシナリオに、さらに一つの新たな情況の変化を付け加えたい。
砂漠か、密林か、宇宙の一角に、一個の窓を発見した。
そこからは、幸福な人々がそれぞれの人生を営んでいる様子を、眺めることができた。
そして、ある日、だれかが、救出に駆け付けてくれたのである。 誰でも良いという訳ではない。
その人に、自立心と、優しさと、聡明さと、およそ個人に期待できるすべての要素が
備わっていたとしたら、どうだろうか?
ジェイクは、啜り泣いていた。
感情を、コントロールすることが、出来なかった。
それは、人間に期待できる、ほとんど唯一の可能な反応ではないだろうか?
彼がジェインとの会話を終えてから、すでに二時間が経過していた。
おお、ジェイン!
単純な名前だ。 とても短くて、とても愛らしい。
その簡潔さは、ほとんどメロディアスですらある。
彼の感じる感情の、おのおのは、他のどれかと激しい戦いを繰り広げていた。
外界に窓が開かれたという高揚感は、ほとんど同時に、外界が何をするつもりなのかという、
恐怖の絶望感に席を譲っていた。
他の誰かと話が出来たという解放感は、自分の存在が発見されたことで起こる、
未来の閉塞感と期を一にしていた。
そして、愛。 彼は、これも愛なのだと考えていた。 それは、慥かに愛に似た感情だった。
ジェインへの愛は、自主独立の信条と正面から衝突していた。
彼の存在は、沈黙のそれだった。
孤独な存在だ。 誰とも関係を持たなかった。
愛のためであっても、それは禁忌だったはずだ。
彼の半身は、残りの半身にそう絶叫していた。
半身は、その忠告を神妙に聞いていた。
少なくとも、今は。
* * *
次の十週間というもの、天国にいるような生活が続いた。
毎晩、ジェインの部屋に徒歩旅行をした。
最初の何回かの夜は、彼女の耳に案内のない危険な冒険を実行した。
それが続いた後で、彼女は助けを貸したいと申し出て来た。
ただ彼女と話をするためだけに、彼が犯している大きな危険について強調した。
しかし、彼は危険を犯すことが、どうしても必要なのだと説得していた。
過去九週間と四日間というもの、ドレッサーの左脚の上に歩いて行き、
そこで辛抱強く、彼女の帰還を待っていた。
短く爪の切られた爪先が、その上に乗るようにと提示される。
彼女は出来るかぎり優しく、耳元に運ぶのだった。
そして、おしゃべりをする。 何時間も何時間も。 すべてについて。
彼は、もうすべての点で時代遅れになっていた。
たぶん、主人達がテレビを見ている時には、それに注意を向けているべきだったのかもしれない。
しかし、それはあまりにも遠い世界の出来事だった。
彼自身の問題が山積しているのに、どうして世界の問題にまで、関心を向けることが出来るだろうか?
それに何よりも、この素晴らしい女性と、このように会話ができるなんて、まったく信じられないことだった。
彼女は、すてきだった。 頭が良く、面白かった。
彼女は、なんと四次元生物学の学生であった。
彼が、むかしむかし、一度はそうであったように。
そして、親切でもあった。 彼は、彼女の中に自分を見失いそうだった。
ある夜。 彼女と話をしていた。 耳の中に座っていた。
彼女は、新聞記事を読んでくれていた。 遠い国の奇妙な事件だった。
ほとんど無意識に、彼女の耳の内部を手で擦りはじめた。
優しく。
柔らかく。
しかし、熱意を篭めて。
「ああ…ううん……。 何をしているの?」
雷鳴が轟いた。 いつもより、少し低めで、かすれたような声がした。
(ああ、ごめんよ……。 ぼくは、ただ……。)
「何をしているにしろ……、止めないで。 とっても、気持ちが良いわ」
行為を続けた。 わずかだが、前ほど、柔らかくはなくなっていった。
より、熱烈なものになっていった。
「ジェイク……?」
雷鳴は、その音色は……。 ハスキーなものだった。
(なんだい?)
彼の答えも、呼吸が少し早くなっていた。
「ジェイク……。 あなたは、私のことをどう思って?」
男を緊張させるたぐいの質問だった。
以下のようなものと同じ種類の問いだった。
「このドレスを着ると、太って見えないかしら?」
「私の妹は、セクシーだと思う?」
答えによっては、破局の危険を秘めていた。
ジェイクは、ちょっと間を置いた。
真実を言うことにした。
(ぼ、ぼくは……。 君のことを愛している)
長い、とても長い間が、あった。
彼は、ひそかに自分自身に、呪いの文句をつぶやいていた。
その時、次のような言葉を耳にした。
「ジェイク……。 私もあなたを愛しているわ。 心が痛いぐらいによ」
彼は、愛撫を続けていた。 もう少し力を篭めた。
「ジェイク。 縮小されてから、セックスについて、考えたことがあるかしら?」
彼は、ほとんど息がつまるような思いだった。
(ああ、あるよ……)とだけ答えた。 我ながらおかしな声だった。
「ねえ、セックスしてみたいと思わない?」
彼は沈黙していた。 永遠に思える時が過ぎた。
彼女が、今したような、こんな大胆な質問をするはずがない。
彼は何の返答もできなかった。
彼女は、巨大であったし。 彼は……。
(もし、君が。 試してみたいならば……。 ぼくは、試して、みてもいい。 君と一緒なら)
かすかな、くすくす笑いがした。 神経質で、とぎれとぎれだった。 世界が振動した。
「私を信じてくれる?……」
これは、彼が聞かれたくない種類の質問だった。
彼女を信じないなんて、そんなことあるはずがない。
それは、誰をも信じられないと言うことに等しいのだ。
人間への、その激しい不信感があったから、彼はこれまで生きてこられたのだ。
しかし、彼は彼女をあまりにも強く求めていた。
信頼という苦みを、味あわなければならなかった。
(世界の誰よりも、君のことを信じているよ)
これは、完全なる真実だった。
「いいわ……。 わかったわ。 ちょっと、待っていてね」
衣擦れの空気の音と、動きと、世界の再編成が進行していった。
ジェインが服を脱いでいるのに違いなかった。
ドアに鍵を掛けた。 ステレオの音楽を消した。
「OK……。 さあ。 行きましょ」
指が、そこにあった。 彼を待っていた。
一歩を進めた。 彼は、震えていた。 最悪の事態を恐れていた。
彼女も、同様に震えていた。 ゆっくりとしたエレベーターのように慎重な下降の動きを、
ビルの七、八階分の高度に渡って継続していた。
そうしながら、彼女は自分もゆっくりとベッドに横たわっていった。
彼を右の乳房の乳輪の上に下ろした。
心臓の鼓動が、絶え間のない鳴動をもたらしていた。
彼の位置は一秒間ごとに、微妙に移動していた。
彼は彼女の顔の方角を見た。
彼女は、酔ったような笑みを浮かべていた。
「私は、あなたのことを、もうしばらく見ていたいの。
あなたに、答えられないことは、分かっているわ。
いいえ。 あなたには。 できると思うわ。
でも、あなたに、無理な大声を出させたくないの。
もし危ないと思ったら、身の安全を守るためには、何をしても良いわ。
何でもよ。 愛してるわ」
振り向くと、彼女の乳首の上に跨がっていった。
キスをした。 優しく。 世界が、振動していた。
「ねえ……あなたは、それと同じことを、あそこでも、出来るのかしら……?」
指が、再びそこにあった。 彼女のもっとも秘密の地帯に、誘う準備が出来ていた。
彼はためらうことなく、それにしがみ付いていた。
ジュリーとターニャとの経験で、見事にホームランをかっとばしているのだ。
結局のところ、あの体験は、このためにこそあったのだ。
今が、その真価を発揮すべき時だった。
過去二回は、指で磨り潰されないようにという、ためらいが心のどこかにあった。
しかし、今はジェインと一緒だった。
何の心配もなかった。
彼女は、彼がそこにいることを知っていた。 注意深く、振る舞ってくれることだろう。
南アフリカの草原地帯に置かれた。 冒険を開始した。
目的地に向かって、堂々と歩き始めた。 両側の唇を愛撫していった。
大峡谷の谷間に下りていった。
ここから震えが、女主人の肉体を貫いて走っていった。
彼は、この場所で自分の持てる知識と技術と体力のすべてを、彼女に注ぎ込んでやるつもりだった。
彼女の唇は、もうかすかに開いていた。
ジェインの甘く濃厚な芳香が、さらに濃度を増していた。
それは、ターニャのそれに驚くほど似ていた。 彼は、そう考えていた。
しかし、あれよりも、さらに素晴らしかった。 より甘く、より清潔だった。
自分の究極の、目的地をめがけて、さらに進行していった。
しかし、注意深く、けっして焦らなかった。
彼女は、小さなため息をついていた。
「とっても、素敵」
一秒後には、それは「素敵」という言葉で表現できる事態を、遥かに凌駕することだろう。
彼は、そう予感していた。 クリトリスに辿り着いた。
注意深く。 それに手を触れた。 優しく愛撫していった。
この場所から、電流がジェインの肉体全体に放射して、走り抜けた。
「ああ、あああ、ああん……」
情熱を篭めて、彼は行為を続行していった。
優しく。 まるで、それがジェインその人であるかのように、抱き締めて愛してやった。
キスをし、愛撫をし。 撫で擦り、抱き締めた。
それぞれの動きのたびに、彼女の腰の位置は、少しずつ上昇していった。
「あなたが、何をしてくれているにしろ……。 これって、最高よ……」
五百メートルの彼方で、雷鳴が轟いた。
彼は、今では内部に入り込んでいた。 水門が開閉される音を聞いた。
さらに、内部に侵入していった。
再び彼女が咆哮した。
さらにあの場所を愛撫していった。
もう限界だと思ったところで、深海からの津波が、かつて体験したことがない、
恐るべきエネルギーをこめて襲来した。
彼ができるのは、今いる位置にしがみ付いていることだけだった。
ジェインが達するのを、如実に感じていた。
自分も絶頂に達しながら、愛する人とのセックスこそが最高だという、古い諺を思い出していた。
* * *
彼は、耳の穴に戻っていた。
彼女の心臓の、安定した、ゆっくりとした、規則正しい鼓動を聞いていた。
彼等は、おしゃべりをしていた。 いつもと、同じだった。
しかし、今までとは、何かが明らかに違ったことにも、気が付いていた。
「分かってくれるかしら。私は、今まで一人の人としか、セックスを経験したことがないのよ」
彼女は、そう正直に告白していた。
「あなたと比較して、彼はあまりにも一方的だった。
今度のとは、比べものにならない! ひどいものだったのよ」
(そう言ってもらえて、嬉しいよ。 でも、ぼくがそれほど素晴らしい男だとは、とても思えない。
ぼくには、とても無理なことがあるから……)
「あなたは、自分の持てる力を、全力で発揮してくれたわ。
女の子にとって、それ以上に素晴らしいことってあると思う?」
彼女は、かすかに笑っていた。
「私は、自分の方こそ、あなたにとって良かったかどうか、心配なのよ」
(君は、驚天動地な女性だよ。 まるで地震と愛し合ったような気分だよ。
もちろん、とてもセクシーで、とても美しい地震だけどね)
「地震が、ダンスを踊ろうとしている時、誰かさんには「ノー!」と言えるのかしら?」
彼女の声には、そのヒントが密かに埋め込まれていた。
(少なくとも、ぼくじゃないね。 思うにさ。 地震が君でなかった場合は、特にそうだ)
ちょっとした間があった。
「私は眠くなっちゃたわ。 ジェイク。 私の耳で、今夜一晩だけは、寝て欲しいの。
でも、眠っている内に、振り落としてしまうかもしれないし。
あなたの上に、乗っかってしまうかもしれない。 ナイトスタンドの上では、どうかしら?」
彼はちょっとの間だけ、考えた。
(そうするよ)
彼女は、彼を気をつけて持ち上げた。
ナイトスタンドの上の柔らかい場所に置いた。 ほほ笑み掛けた。
顔は目覚まし時計の、赤い文字盤の光の色に染まっていた。
「愛してるわ。 ジェイク」
そして、優しく彼に投げキスをした。
彼は巨人の顔が、ゆっくりと意識をなくし、眠りにつくのを眺めていた。
これが、どこへ二人を導いていくことになるのか、心配していた。
ここは、彼の家だ。 そして、彼の生き方の基本は。 自主独立だった。
自分の傍らで、優しく眠る女を愛していたとしても、自己の運命を決定する能力を
失うのではないかと、不安にならずにはいられなかった。
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完全なる人間
第7章・完
《コラージュについて》
笛地静恵さんに投稿していただいた『傑作シュリンカー小説 完全なる人間』に、
私の趣味で、コラージュを入れさせていただきました。
ジェイク君を、本当に身長5mmにすれば見えないので、数倍の大きさにしています。
制作の都合上、彼のサイズや体型が違っています。
また、文中の内容に合致していないシーンもあります。
正直な話、身長5mmのジェイク君の世界を完全には表現できたとは、とても言いがたいです。
お客様におかれましては、参考コラージュとして、ご覧いただければ幸いです。
少しでも、小さな彼の世界を表現できていると思っていただけるのなら、嬉しいです。
2003年 4月 みどうれい