完全なる人間 (第9章)
機械仕掛けの神・作
笛地静恵・訳
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彼は自分が想像していた以上の、凄まじい光景を見せ付けられていた。
心には、霧がかかっているようだった。
しかし、その眩暈の霧を通して、グレッグの規則正しい動きを感じていた。
グレッグの出したり入れたりするリズムに呼応して、
ジュリーの性的な器官の内部に、あの種族保存の本能そのものような貪欲な精液の吸引力が、
自然に発生し増大していくのを感じていた。
彼は、観察していた。 半分以上、グロッキーになりながらだが。
このような情況を、相手が同じ女性であった時の二人は、今以上に楽しんでいたのではなかったか。
現在の異性の主人たちよりも、レスビアンたちの方が、情況を楽しんでいたのではないか。
この発見は、衝撃的だった。
彼女たちの喜びの泉は、これよりも滾々と溢れていて、濡れそぼっていたのだった。
行為の間も、どちらかが一方的に、どちらかの要求に服従していたのでもなかった。
彼は、男の行為に合わせて、ジュリーの膣の筋肉が、生物として自然に反応するのを感じてはいた。
どうして彼女は、こんなことをする必要があるのか?
意味のない本能だけのセックスに、すぎないのではないか……。
彼は、グレッグが数千の消防用のホースを束ねたような轟音をあげて、
精液を発射する音を聞いていた。
ジュリーは、膣をゆっくりと蠕動させてから、やがて静止させた。
空気は、蒸し暑くなっていた。 かすかに塩味を増していた。
ゆっくりと、ゆっくりと。 周囲の世界が、沈静化していった。
ジェイクはゆっくりと、出口の方に登っていった。
女主人に気が付かれないように、細心の注意をはらってだが。
登攀は、それほど困難なものではなかった。
なんのトラブルもなく、彼女の秘密の地帯への門に到達していた。
彼等が、家にいるのではないことに気が付いた。 グレッグのアパートメントだろう。
彼は注意して、ジュリーという名前の、生きた肉体の高原の上を横断していった。
彼女が一緒に持ってきた物を、探していた。 それと一緒に、家に帰るつもりだった。
とうとう見付けた。 小さな革のバッグだった。 明らかに、ドレスと一緒に持って来たものだった。
床の上に置かれていた。 翌日の朝が来た。
彼は、ちょうどそこまで、超高層のハイウエイが、ベッドの毛布によって
使用可能な状態になるまでに、作られていることを知って、狂喜していた。
三十分後、バッグの隅に自分の隠れ場所を作っていた。 口紅と香水の間だった。
あまりにも多くの物を、見てしまった。
もう望むことは、一つだけだった。
家に帰ることだった。
* * *
さらに、一日が経過した。 彼は、家に帰ることが出来ないでいた。
ジュリーは、グレッグと日がな一日を、ベッドで暮らす生活を営んでいた。
セックスをし、ピザを喰いにいき、セックスをし、そして、長い時間まどんろんでから、またセックスをした。
彼にとって、この期間に出来ることは、ほとんどなかった。
それで、彼は眺め、その光景に注意を集中しようとした。
そこで、学んだことは、自分自身でも驚くような結論だった。
ジュリーは、この事態を嫌がっているのだ。 そう言っても、信じられないかもしれない。
が、グレッグがジョークを言った時の反応を眺めていると、それが良く分かった。
ジュリーは、退屈そうに口元を歪めて、ちょっと笑ってみせるだけだったのだ。
フットボールについて、彼女が話している口調を聞いていれば、すぐにわかることだった。
彼女は、この球技が嫌いなのだ。 合いの手も、熱意を欠いた、おざなりなものばかりだった。
グレッグが、彼女の身体の上に乗り掛かっていく時、それを受け入れる時の反応でも、それと分かった。
彼は、彼女の求める男性ではないのだった。
彼女の方が、彼の上になる時でも、事態に大差はなかった。
どこかで、どのようにしてか、彼女の頭の中には「愛はセックスだ」という固定観念が、
しっかりと植え込まれてしまっているようだった。
だからこそ、愛のためにファックしなければ、いられないのだ。
この不幸な事態を、これ以上継続させることに、我慢が出来なくなっていた。
彼は、ジュリーが大好きになっていたのだ。
機知もあり、頭の良い女性だった。 善良なハートの持ち主だった。
あるいは、ジュリーもまた、大人の女性としての、発展途上にいるのかもしれなかった。
彼と同じだった。
その夜が更けてから、自分が、より適切だと思う、正面からの説得という方法とは反していたが、
ジュリーの耳の穴へと徒歩旅行を敢行した。
彼女が、眠っている間だった。
それは、失敗するかもしれない古風な計画だった。 彼は、その場所に座り込んでいた。
彼女の耳の穴の洞窟の底に蹲っていた。 優しい声音で、何度も語り掛けた。
彼女の意識が、この声を捕らえることが出来るとは思えない。
それでも、彼は自分が正しいことをしていると、信じていた。
(君は、こんなことをするよりも、素晴らしい女性なんだ。 ジュリー。
君は、彼にはもったいない女性だ。 君は素晴らしい。
君は、もっと素晴らしい恋をするべきなんだ……。 )
彼は、年度も繰り返した。
繰り返し、繰り返し。
彼女は眠っていた。
数時間後、とうとうその場所から脱出した。
ジュリーの顔を優しく、何度もその手で愛撫してやっていた。
* * *
その朝、彼は怒ったような声で目を覚ました。
「なんだって、言うんだよ。おまえは昨夜、何も気にせずに、これをしゃぶってくれてたじゃないか」
「そうよ、グレッグ。 したかもね。 あなたを、気持ち良くさせたいから、そうして上げたのよ。
あなたが、わたしを気持ち良くしてくれると、思ったからよ。
でも、あなたは、充分にお返しをしてくれてなかったじゃない。
あなたは、自分には、魔法のお道具が付いているって、豪語してたでしょ。
そうね、グレッグ、わたしには、あなたの自慢の魔法が効かなかったのかもね。
面白かったわ。 でも、もう帰るわね」
ジェイクは、まっすぐに立ち上がった。 彼は慥かに、その言葉を聞いた。
「がっかりだぜ、ジュリー。 おれは、おまえがセックスが大好きな女だって、聞いてたんだぜ」
彼は今年の「失恋ベスト男優賞」に選出されるような、情けない声音をしていた。
「グレッグ。 わたしは、あなたが考えているよりも、もっと素敵な女性なのよ。
あなたが与えてくれるような、セックスだけじゃない恋愛をしたいの。
わたしは、そう決めたの……」
「なんだって? おまえは、自分が男好きの女じゃねぇって、いうのかよ?」
ジェイクは、ビルディングが一個、爆発したような轟音を耳にした。
それから、すぐに次の言葉が続いた。
「言葉の使い方に気をつけなさい。 グレッグ。 さよなら」
いきなり、カバンが空中に飛び上がっていた。
ジェイクは増大した加速度に、底面に押し付けられていた。
彼等は、凄い速度で移動していた。
なんと時代遅れの睡眠学習法が、効果を発揮したのだった。
ジュリーは、なんて素直な子なのだろう。
* * *
その夜、七時を過ぎて、彼は我が家に到着していた。
明かりを点けた。 その場所を、じっくりと見回していた。
素晴らしい場所だった。
ランプと、ロープと、レバーがそこにがあった。
食料の貯蔵室があり、バスルームがあった。
蛇口からは、水がほとばしった。 電気も使えた。
彼の頭上五百メートルの地点から、電気のコードが引かれているのだった。
驚異の念に打たれながら、もう一度見回していた。
彼が、これを建てたのだ。
時と、幸運と、両手以外には、何の助けも借りなかった。
数年を掛けた。 しかし、彼は、これを作ったのだ。
ここに注ぎ込んだ血と汗と涙を、知るものは誰もいなかった。
もし、普通のサイズの人間が、この場所を覗き込んだとしたら、
そこに見るものは、ちっぽけな壁の隙間に過ぎないだろう。
ちょっとの食べ物。 そして、いくらかの糸クズ。
彼等は、鼠がここに巣を作ったんだろうと、判断するだけだろう。
そして、簡単にそれを壊してしまうだろう。
そうであっても、彼がこの家を建てた事実に変化はない。
そして、そこは、実に素敵な場所だった。
しかし、この感動は誰とも共有できない。
シャープペンの芯を取り上げた。
そして、壁に文字を彫り込んだ。
「我、ジェイク・フィニー。 ここに住む。 1998〜2001」
ちょっとの間、次の文句を考えていた。
さらに、何を書くべきだろうか?知っているラテン語は、ごく僅かしかなかった。
完全なる人間。 homo sum。
「humani nil a me alienum puto.」
かつても、今も、我は、人間なり。 けして、異人には、あらず。
これで、最後の仕事は終わった。 最後の明かりを消した。
なお、まだ三日間の猶予があった。
しかし、もう一秒たりとも、待ってはいられなかった。
* * *
彼女の部屋に到着したのは、夜の十一時を回った頃だった。
彼女は、新しいアルバムに耳を傾けていた。
腹ばいになって、四次元生物学のテキストを広げていた。
おそらく明日も期末試験があるはずだった。
彼は、彼女を驚かしてやりたかった。 だから、直接に行動に出た。
慎重に接近していった。 彼女が探している様子はなかった。
彼女の肘に向かって走った。
それから、Tシャツの内部に潜り込んだ。 背骨の尾根を登攀していった。
ブラの止め金の上を通過した。 甘い香のする髪の海に飛び込んでいった。
出来るかぎり素早く、耳朶の所に登っていった。
彼女がハミングする声を聞いていた。 かすかに。 可愛らしい歌声だった。
彼女が何と言うだろうかと、ちょっと考えた。
(ジェイン。 ) 大声でそう言った。
すぐに、すべてが凄い速さで動いた。 彼女は飛び上がっていた。
何か言う前に、まず音楽が消された。
「ジェイク……。 あなたなの?」
彼女は、ささやいていた。 信じられないような口調だった。
(そうだよ。 ぼくだ。 ぼ……。)
言葉に詰まって、何も言えなくなっていた。
ジェインが、この空白を埋めてくれた。
「わ……私、ずっとあなたが、戻って来てくれるって、信じていたわ。
さよならは、いったけど。 ごめんなさい、ジェイク。
あなたに、いきなり重い負担を掛けるべきじゃなかったのに……」
(違う!)
彼は叫んでいた。 謝罪の言葉を、止めさせなくてはならなかった。
(違うんだ。 君が謝る必要はない。 君は、ぼくを責めたりはしなかった。
そうしたのは、ぼくだ……。 ジェイン……。 君は……、あの、その)
「私が、何ですって?」
彼女は、不安そうにそういった。
しかし、ジェイクは彼女のことを良く知っていた。
その質問には、わずかだが、からかうような調子があることに、気が付いていた。
(まだ、ぼくのことを、ロンドンに連れていってくれる気持ちはあるかい?
ぼくが君を悩ませたことは、充分に承知している。 でも……ジェイン。
もし、君と行く道を選ばなければ、自分が自由に生きていることにはならないと、やっと分かったんだ。
君が行くところなら、どこであろうと、ぼくは付いていく。 それが、ぼくの自由だ)
長い間があった。
「それじゃ、あなたには、もうセックスは必要ないの?」
彼女は、明るくそう言った。
彼が大声で笑いだすまでに、ちょっとした間があった。
それから、彼女もそれにつられるように笑いだしていた。
笑い声は、マクロな視点でも、ミクロな視点でも、交じり合って全宇宙に響き渡っていった。
そして、自ずから美しい音楽となっていった。
* * *
その晩、二人は二度愛し合った。
それこそ、彼が欲していたすべてだった。 それ以上のものがあった。
彼女とテストの会場にも出掛けた。 左耳の内部に、安全に隠れていた。
その夜、彼等はおしゃべりをした。 笑い合った。 冗談を飛ばし合った。
彼女は、彼に一個の贈り物をした。
それは、ペンダントだった。
「これが、檻みたいに見えることは、分かってるのよ……。
それを買った時には、あなたに使うなんて、考えてもみなかったし……」
(鍵は、あるのかい?)
「あるわ、いつでも開けられるわよ」
(それじゃ、何の心配もないよ)
それは、本当にまったく天才的な発明品だった。
彼女は、ここ二ヵ月間というもの、必死に作業していたのに違いなかった。
壁には、精密なベアリングが内蔵されていた。
内部は、周囲に完全にクッションを張り巡らしてあった。 完全な個室になっていた。
彼女が、歩いているときには、彼は椅子に身体を固定して、座っていることが出来た。
小さなガラスの窓から、外部を覗くことが出来た。
傑作は、ワイヤレスのマイクロフォンだった。
極小サイズの補聴器型の無線機に繋がっている。
彼女は、それを耳の穴に収めていた。
「これを造るのには、ずいぶん費用が、かかったんだろうね?」
彼は、心配そうに尋ねた。
「無料よ」
彼女は、満足そうにそう言った。
「もともと、ペンダントは持っていたし。 補聴器は、授業で組み立てたの。
簡単に作れるわ。 たったの、のべ四十時間しか、かからなかったもの」
彼は、今その内部にいて話していた。
彼の声が、今までにない鮮明さで、彼女の耳に届いていた。
「出発進行、このまま直進!」
景観は、信じられない程のものだった。
彼女のTシャツの襟元の、少しだけ上の所から覗いていた。
下界を見下ろせば、彼女の白い乳房があった。
彼は、口笛を吹いていた。 大きく。
どちらの光景が趣味に合うかは、明白だった。
次の二日間は、嵐のように過ぎていた。
彼等が、その事実を心に浸透させる前に、ジェインの旅立ちの日が来た。
彼女は、ジュリーとケイトと抱擁していた。
印象的な光景だった。
空港へ行く、別れの時が訪れた。
彼は、自分の家とすでに別れを告げていて、良かったと思った。
今では悲し過ぎることだろう。 あの場所も愛していたのだ。
しかし、そこはすでに彼の家ではなかった。
「ジェイン」
彼は、混雑した空港の内部を眺め渡しながら、口を開いた。
(分かるかい?)
「フンフン ムムム」
彼女はハミングをしていた。 彼の声音は、その表情をちょっとだけ奇妙に歪ませていた。
「ぼくは、家を離れるんじゃない。 君がいるところが、ぼくの家だ」
彼女は微笑した。 そして、ペンダントを指先で愛撫していた。
完全に同感だった。
* * *
現実は、いつも、それほどに簡単ではなく、それほどに単純でもない。
決して、そうであったことはない。
妖精物語の最後は、こう終わる。
「そして、二人はいつまでも、幸福に暮らしました。 めでたし。 めでたし」
しかし、人生はいつも幸福であるということはないし、簡単でも、単純でもない。
新しい挑戦には、いつも新しい困難が伴う。
それは、それ以降の人生に、波乱をもたらさずにはいないものである。
彼は、過去四年間の出来事を、回想していた。
逃亡、家、男たち、少女たち。
ジュリー、 ターニャ、 リンゼイ、 ケイト、 そしてジェインがいた。
いつもジェインがいた。
彼女の首筋から宙吊りになった場所で、過去二年間を振り返っていた。
彼女は、優秀な成績で大学を卒業した。
ミネソタ州のローリン研究所での就職も決定している。
彼女は、テレサ・ピーターソン博士の研究計画の、助手を勤めることになっている。
彼は、彼女に大学院まで進学するように進めたことがある。
しかし、返答はそっけないものだった。
「大学院は、待っていてくれるわ。 でも、こっちは、そうじゃないの。
もっと言えば、私自身が待てないのよ」
彼には、未来にどんな出来事が待ち構えているか、まったく分かっていなかった。
彼女自身も、同様だった。
しかし、彼女には自分の進路を、彼もいつか理解してくれるだろうと言う予想があった。
古い緑の車の内部で、二人きりになっていた。
「ジェイン、愛しているよ。 ぼくは、自分が不完全な人間だと、分かっている。
特に、現在は、深刻な問題を抱えている。 でも、もし、この縮小状態から、解放されたら……」
「ちょっと止めてちょうだい。 最後の文句が聞こえなかったわ。
もし、縮小状態から解放されたら、何をしたいのかしら?」
彼にとっては真剣な瞬間だった。 だから、ひどく遊び半分の返答に聞こえた。
これも、彼が彼女を愛している理由の、一つだったが。
「ええと……。 そうだな、ぼくは、君がいるところならば、いつでも幸福な気分になれる。
君がいなければ、ぼくは不幸な気分になる。
自分の寿命が、この身体でどれくらい続くのか。 それすら見当もつかない。
しかし、その残りの時間のすべてを、君と一緒に暮らしたいんだ。
ぼくと、ああ、そのう、結婚してくれるかい? ぼくが、言うのは……」
「それ以上、言う必要はないわ。
私は、あなたと結婚するつもりなのよ。 何の問題もないわ」
彼女は、ペンダントを持ち上げた。 それを顔の前にぶら下げると、優しく、甘いキスをした。
彼は、もはや沈黙の孤独な存在ではなかった。
彼は人間だった。
そして、彼女のものだった。
それで、完全なる人間だった。
二人はそれを知っていた。
彼等は結婚するだろう。
しかし、それは、別の時の、別な物語である。
確実に言えるのは、一つのことだけである。
二人は、いつまでも幸せに暮らしました、と。
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完全なる人間
第9章・完
完全なる人間・終わり
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《コラージュについて》
笛地静恵さんに投稿していただいた『傑作シュリンカー小説 完全なる人間』に、
私の趣味で、コラージュを入れさせていただきました。
ジェイク君を、本当に身長5mmにすれば見えないので、数倍の大きさにしています。
制作の都合上、彼のサイズや体型が違っています。
また、文中の内容に合致していないシーンもあります。
正直な話、「小さなジェイク君の世界」を完全に表現できたとは、とても言いがたいです。
参考コラージュとして、ご覧いただければ幸いです。
2003年 4月 みどうれい