エンパイア・シリーズ コスモポリタン
ゲイター・作
笛地静恵・訳
第2章 ティファニー
5***
「ちょっと、入っていいですか?」
ティファニーは、プリシラの声に驚いていた。椅子から飛び上がっていた。
その時の彼女は、鉛筆の先端を下にして、敵のキューブの中に落すという単純な遊びに熱中していた。最初は、あまり考えもなしに、始めたことだった。しかし、これが、意外に楽しいということに気がついたのだった。もっと、この中に、いろいろな物を落してやろうと決めていた。
書類を止めるためのクリップでもいい。髪留めのピンでもいいだろう。それらは、ちっぽけなこの世界の住民達にとっては、まるで巨大なミサイルのようなものだった。軟らかい地面に、深く突き刺さっていった。今も小さめのビルディングを、ピンの先端部分によって、屋上から真っ二つに貫いてやったところだった。
「驚かしてごめんなさい。ティファニー。でも、オフィスにも、モップをかけなさいといわれているから」
プリシラが、オフィスのドアの隙間から可愛らしい顔だけを出して、中を覗いていた。モップの柄の端を頬に押し当てていた。オフィスといっても、床は、店と同じ白いハード・タイルだった。そこに、朝の開店時と夕方の閉店時の二回、大きなモップをかけることになっていた。どうしても毛などの微細なゴミが飛んでくる。掃除が必要だった。白いソファーに張りついた毛の一本まで見落さないようにやる。それでも、すまない部分については、週一回の休みの日に、掃除のおばさんが、隅々まで徹底的にきれいにしてくれていた。
「ああ、今日はいいわ。気にしないで。帰宅していいわよ。速く、家族のところに帰ってあげなさいな。モップは、明日かけてくれればいいわ」
「了解しました。船長!」
敬礼していた。プリシラは、何はともあれ大量虐殺の現場から、一刻も早く退散したかったのである。それに比べれば、いつもよりも、三十分速く退社できるということさえ、それほどの喜びをもたらさなかった。でも、時給も、勤めたと同じだけもらえる。うまい話だった。彼女もダフネも、ラッシュアワーの前に、家路をたどることができるだろう。
しかし、ティファニーにとっては、彼女たちほど思い通りには、事態が進行しなかったのだ。
ドアにカチャリと閉る音がした。同時に、黒い椅子から立ち上がっていた。鍵をかけていた。
ようやく一人きりになれた。
いや、とうとう彼女の愛する敵のキューブと、二人きりになれたのだ。オフィスの自分のいつもの机に戻りながら、息をのんでいた。それは、まるで素裸で無防備にベッドに縛り付けられている恋人のように、机の上に乗っていた。
彼女がした最初のことは、体の線を出すために一回り小さいサイズを着ているブラウスと格闘しながら、脱ぎ捨てることだった。ブラも?ぎ取るようにして外していった。日頃は仕事に使用している部屋で、ヌードになることは、それだけで刺激的な行為だった。悪い女になった気分だ。特に、最近は、仕事に対して窮屈な閉塞感を抱き始めていただけに、大きな解放感があった。
都市の中には、この光景を盗み見ている数千人を超える観客がいる。そう思うとオフィスの中で、はしたないかっこうをしているという思いとあいまって、ティファニーは、自分が明らかに濡れて来るのを感じていた。
この状況を十分に楽しんでいた。
もっと楽しむためには、遊び道具が必要だった!
6***
マックは、ケリーの眠りをまた覚ましてやらなければならなかった。可哀想に。いつもは、健康そのものの彼女が、疲れきっているのだ。
「彼女が、戻ってきたようだぜ。動けるかい?奴は、またペンで、「神様ごっこ」を始めるんじゃないかと思うんだ」
「あたしも、そう思うわ」
ケリーは、芯がしっかりとした少女だった。きれいな花のような、か弱いだけの美少女ではなかった。痛みに耐えて立ち上がっていた。自分の二本の長い足で、体重を支えようとしていた。十代の頃から水泳で鍛えてきた、しなやかなアスレティックの身体は、女子大生になった今も、強靭なばねを秘めていた。
「思っていたより、足首を強くひねったみたい」
重心が、ぐらりと傾いていた。捻挫していたのだ。
「どこかに隠れ場所を、探した方がいいと思うんだ。いますぐにね。彼女が帰ってきたようだぜ。見ろよ」
彼が、窓の外を指差していた。
二本の爪がそこにあった。
指は、どちらも橋ぐらいの長さがあった。
それが、下降してくる。
|