小舟は空へ


ネモ・作
笛地静恵・訳



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0・『最悪の日』

 その日は、僕のマイラード・フィルモア・ハイスクールでの学生生活の中でも、『最悪の日』だった。まず代数のテストで、それまでに一度も取ったことがなかった「D」ランクをくらってしまった。

 体育の時間にも、恥ずかしいことがあった。体育館の天井から垂れ下ったロープを、調子に乗って、するすると上っていった。頂上までいった。そこで初めて、下りられなくなっている自分を発見したのだった……。体育館中の生徒たちの軽蔑の視線を浴びながら、そのままの態勢で、ぶらさがっていなければならなかった。


 もっと屈辱的なことがあった。学校でも、もっとも長身の部類に入る女の子が、僕にぶつかってきたのだ。簡単に、ノックダウンされた。しかし、これらすべても、その後に続いた恐怖の体験と比較すれば、ほんの序曲に過ぎなかったのだ。……それは、僕が下校して、自宅に戻ってからのことだった。

                 *

 順番に説明すべきだろう。その頃の僕は、とても小柄な生徒だった。その下に立つと、身長計の棒の目盛りは、いつも遥か上空まで余っていた。体重も、五〇キログラムを、たいして越えてはいなかった。そのことは、ジュニア・ハイ・スクールの最後の年度までは、ことさらに僕を悩ませるという問題ではなかった。


 しかし、今年度になって突然に、周囲の女の子たちが、まるで雑草のように、にょきにょきと大きくなっていった。信じれらないようなスピードで、僕の頭上に聳えるようになっていった。同時に、僕の方はと言えば、まったくさっぱりと、成長する気配さえなかったのだ。
 
 ハイ・スクールは、本当にショッキングな場所だった。いきなり最高学年から、フレッシュマンという新人の立場になってしまった。上級生であるジュニアとシニアの女子生徒達は、僕の周囲を高い壁のように取り巻いていた。ただ学校の廊下を歩いているだけで、僕は巨人族の少女たちの脚と、お尻と、胸の、海原のただ中を漂流している、小舟になったような気分になっていた。まるで『巨人の国』に漂着した、ガリバーになった気分だった。


 その恐怖の一日も、ようやく終わろうとする時刻になっていた。僕は廊下を最後の授業の教室に向かって急いでいた。偶然に、サリーの背後を通り過ぎることになった。彼女は美人で、学校でも有名な生徒だった。それに、マウント・エベレストよりも長身だった。ロッカーの中を、忙しそうに捜し回っていた。後を、まったく気にすることもなかった。いきなり、後ずさったのだった。超巨大なお尻が、僕を直撃していた。跳ねとばされていた。壁に激突していた。

 呼吸ができないほどの衝撃だった。冷たいタイルの床の上に、座り込んでしまった。息を、あえがせていた。サリーは、そんな僕の頭上に、聳え立っていた。助けようとしていると思った。立ち上がらせてもらおう。片手を差し出していた。

 サリーは、ただ鼻の頭に、しわを寄せただけだった。

「失神したわけじゃないでしょ、おチビさん?もう、だいじょうぶよね?」

 ブロンドのヘアーをなびかせて、駆け出していってしまった。僕は、彼女が廊下の向こう側の端に消えるまで、ずっとその後ろ姿を目で追っていた。お似合いの長身のボーイフレンドが、待ち構えていた。二人は、抱き合ってキスをしていた。

 あのサリーの唇に辿り着くためには、(僕は考えていた)登山道具が必要だろうな、と。

1・安全な港

 どうしようもない『悪日』の学校の授業も、ついに終わった。自宅に戻ることで、僕は、ほっと安心していた。しばらくの間とはいえ、あの「巨人の世界」から距離を置いていられるからだ。宿題も、すぐに終わった。TVの前に座り込んだ。僕専用のカウチの中央に、ぽんと身を投げ出して座り込んだ。リモコンで、チャンネルを変えていった。

 あるプログラムが、僕の手をストップさせていた。だれかが、あの聞き慣れた、海の歌をうたっていたのだ。
 
「波がジャブジャブ 逆巻く夜にゃ
小舟は 空に舞い上がる
だけど僕らは くじけない
すすめ『ハヤ号』 スイスイすすめ」

 それは、もちろんあの「ギリガン島のバラード」だった。ああ、そうさ。僕は、思い出していた。子供番組に三〇分間を費やすとは、なんて素敵な気晴らしの方法だろうか?しかし、「ジンジャーとメリーアン」と、どっちにするかで内心の葛藤があった。結局、珊瑚礁に囲まれた安全な島で、ココナッツ入りのクリーム・パイと狩人に囲まれた、お笑いの世界に、一時、停泊することにした。

「スキッパー!」
 ギリガンが叫んでいた。彼は、両手にいっぱいのココナッツの実を運んでいた。スキッパーが現われた。
「どうしたっていうんでサア〜。ギリガンさま?」 
 そこで、ココナッツの実が落ちた。スキッパーの足の上に。ああ、なんておもしろいギャグなのだろうか!僕は、まるで馬鹿になったように、笑いころげていた。

                 *

 玄関のドアのベルが鳴った。
「いったい、ぜんたい。いまごろ、だれが来たって、いうんでサア〜?」
 僕は、自分にできる最高のレベルで、スキッパーの声色を真似ていた。快適なカウチの指定席から、飛び上がるようにして立ち上がっていた。そして、ドアに向かっていた。

 それを開けた瞬間に、全世界が変容したのだった。

2・嵐の海

 ブルックが、そこに立っていた。彼女は、僕の妹の友人のひとりだった。僕の家にも、何回か遊びに来たことがあった。

「ハイ。ジミー。ティファニーはいる?」

 僕は、ブルックのことは、もう何年もの間、知っている。しかし、彼女には、大きな変化の季節が訪れていた。なんてこった!彼女は、巨人になっていた。少なくとも僕よりは、三〇センチは長身になっていた。僕の方が、一歳の年上なのだった。僕は自分が、彼女の爆発的な性徴の季節を、ほとんど知らなかったことに気が付いていた。最近は、しばらく会っていなかったのだ。

 彼女の身体は、身長という垂直方向の成長にプラスして、さらに新しく魅力的な曲線を付け加えてもいた。彼女は暑い夏を通り過ぎる間に、女性としての成熟の季節を迎えていたのだ。天然のウェーブのかかった、長くて黒に近い茶色の暗い髪が、美しい顔を取り巻いていた。それに、あの形のくっきりとした意志の強さを偲ばせる眉毛。エキゾチックな茶色の瞳は、濡れたように輝いていた。

「ジムと呼んでくれよ」

 僕は答えていた。

「ティファニーは、出掛けているんだ。両親とね。いつ帰るかも、聞いてないんだ」 

 僕は、もうドアを閉めようとしていた。番組に戻ろうと思っていた。

 しかし、ブルックには、別のアイデアがあった。彼女は僕に、意味ありげな、ほほ笑みを返していた。脇を通り過ぎて、リヴィング・ルームに歩いていった。

「すこしだけ、待たせてもらうわね。ジミー」

 長い脚で大股で歩いていくので、僕は小走りにならなければならなかった。


 リヴィング・ルームに入ると、ブルックが最初にしたことは、僕のカウチの真ん中にどしんと座り込むことだった。





 これは僕が、彼女の脇に座らなければならないということを意味する。しかも、かなり接近した状況でだ。どう考えても、普通の状態ではなかった。




                 *

 クッションを抱いて、いちばん端に座るしかなかった。それらを、一種のバリアーとして使用できないかと思ったのだ。しかし、彼女は、やすやすと僕の身体を、自分の方に引き寄せていた。筋肉ひとつ、動かしたのではなかった。お尻の位置をちょっとだけ移動しただけだった。膨大な体重を乗せたカウチのスプリングが、それに屈伏した。彼女のお尻の方に、カウチの表面の革が、張り詰めながら大きく傾斜していた。

                 *

 僕は下半身の男性ホルモンの流量が急速に増大して、臨戦態勢に突入するのを明らかに感じていた。しかし、同時に二人の間に、クッションを滑り込ませて挿入することにも成功してもいた。クリームのように白くて滑らかな太ももの皮膚が、僕のすぐ隣にあった。二人の腕が、触れ合っていた。

                 *

 僕は『ギリガン』の放送を、見てもいなかった。脇に座っている、この巨人族の少女の存在以外には、何も考えられないような状態になっていた。たとえ座っている状態でも、彼女は僕よりも丈高く、幅も広かった。そして、こいつも、いよいよ明らかになっていくのだが、僕よりも力が強く思えた。生物学の講義で、さんざん使用されていた、あの「弱肉強食」というコンセプトを、我が身に引き寄せて、鮮明に理解していた。

 ブルックは、この沈黙の時間に、とうとう耐え切れなくなったようだった。僕の方に顔を向けた。思い詰めたような美しい表情は、僕の背筋に悪寒を走らせていた。同時に、下半身のホルモンの分泌量を、これ以上は我慢できないような過剰な供給量にまで増大させていった。

 彼女は、僕が欲しいのだ。

 それについては、何の疑問もなかった。男女関係の重要な一点については、その時の僕には、経験値がゼロであったことは、認めておかなければならないだろう。これだけは、言っておくべきだ。

 一秒後、彼女は、僕を背後のクッションに押しつけるようにして、押し倒していた。自分の体重を乗せて伸し掛かって来ていた。瞳には欲望の炎が、めらめらと炎えていた。巨大な上半身を倒しながら、僕にキスをしてきたのだった。

 最初のキスは、恐ろしく長い間、続いた。二番目が、すぐに後に続いた。そして、三番目が。これをしているのは、あのブルックだった。あのやせっぽちの、近所の小柄な美少女が、だ。僕からファースト・キスを奪っていったのだ!信じられないことだった。それなのに、奇妙なことだった。僕は、全然いやな気分ではなかったのだ。しかし、自分が弱く、卑小に感じられてならなかった。熱帯の嵐の海の荒波に翻弄されて、空中に飛び上がる、あの『ハヤ号』になった気分だった。

 彼女も僕を凌駕する、自分の肉体のパワーを充分に認識していた。それを、楽しみ始めたような様子がうかがえた。

「どうして逆らわないの、ジミー?わたしを、押し返してみなさいよ?わたしは、ただの小さな女の子なのよ。あなたが、知っているようにね」

 彼女のからかうような声の調子に、僕は興奮していた。同時に、恐怖感を覚えさせられてもいた。抵抗を試みてはいた。しかし、彼女にも明らかに感じられていたように、僕は、もう彼女のものだったのだ。

 彼女が望むかぎり、いつまでも。

 僕は、そのことを彼女に証明してやったようなものだった。

「あのさ、ブルック?そろそろ、自由の身にしてくれないか?家族も戻ってくるしさ」

 ブルックの唇が、微笑に悪魔のように歪んでいた。

「だめよ。おチビさん。わたし、男の子に、キスをしたいのですもの。あなたを、最初の練習台にしたいの」

 彼女はさらに、僕を押さえ付けるように、きつく伸し掛かってきた。肋骨に罅が入ったのではないかと思うぐらいの、凄い力だった。それから、急に囁き声になっていた。

「知ってたんでしょ?わたしが、いつもあなたのことを、好きだったってことを。あなたは、わたしのことを、けして叱らなかったわ。いつも、やさしかった。わたしの小さな身体を、可愛いと思っていてくれたのよね。あなたも、わたしのことを、好きだったんでしょ?」

 僕は、素早く頭を回転させていた。間違った答え方をすれば、身の破滅になりかねないということが、よく分かっていた。

「そうだよ」
 
「それなら、今度は、わたしにキスをしてちょうだい。いいのよ、おチビちゃん。あなたのすべてを、わたしにちょうだい」

 彼女のキスは熱く、甘く、滑らかだった。しかし、僕は、その情熱のすべてに、答えてやることができなかった。アマゾン族の大女に、身体を押し潰されながら、愛という感情を表現するというのは、きわめて困難な事業だった。

 僕は、半分以上は、パニックになっていたのかもしれなかった。考えられたのは、彼女の巨大な肉体が、一刻も早く自分の上から退いてほしいということだけだった。

                 *

3・沈没

 結局のところ、ブルックは、あきらめてくれたようだった。僕のことを単なる実験台として使っていた。他の女の子たちが、クッションやバービーの恋人のケン人形や、その他の、男には分からない、なにかの道具を相手にしてするのと同じような行為だったのだろう。ブルックは、単に、それを僕を相手にしたということだけだった。僕は混乱していた。

 僕は少なくとも、もう一度だけ、ブルックに抗議してみた。

「ブルック、僕の上からどいてくれよ。血のめぐりが悪くなってきたみたいだ」

「あなたの力で、やってみなさいよ、ジミー」

 奇妙な感じがしていた。ブルックの身体が、以前よりも大きくなっているような気がするのだ。そうでなければ、僕の方が小さくなっているのだ。彼女が、僕をカウチにピン止状態にするために、以前よりも、力を入れているような様子がないことに気が付いていた。

 妹の言葉を、ふと思い出していた。ティファニーが、ブルックは「悪い魔女の血」を引いていると言っていたことがあるのだ。大陸での祖先に、魔女がいたという話だった。彼女は、「魔法の杖で空を飛んだ」と言ったのだった。僕は、その時には笑い飛ばしていた。しかし、今では、笑い事ではすまなくなっていた。

「ブルック、きみが僕を小さくしているのか?」
 
 彼女は、くすくす笑っていた。それから、ようやく答えていた。

「そうよ。でも、もう、少しの間だけよ。わたしは、小さいあなたも好きなのよ」

 僕は、震えていた。

「君は、僕を大きくすることもできるのかい?」

「もちろんよ。準備ができたらね。わたしの方が、まだ準備ができていないのよ」


4・提案

 この部屋には、壁掛けの時計がなかった。しかし、僕は、ずいぶんと長い時間が、経過していることがわかった。『ギリガン』が終わって、次の『ブラッディー・バンチ』が、始まってしまったからだ。
 
 僕は、行動を起こす機会を伺っていた。しかし、キスは、いつまでもいつまでも続いていた。とうとう僕は、体力を温存して逃亡に備えるという風に、作戦を変更していた。

 ブルックは、僕の両肩を掴んでいた。瞳の奥を覗き込まれていた。それから、彼女は少しだけ身を起こしていた。僕の感覚では、数センチ分だけ彼女の身体が浮いていた。それから、超巨大な大木のような直径のある太腿を、どすんと、僕の両の太腿の上を横断するような態勢で乗せていた。脱出は、永久に不可能になってしまった。

 巨人女に変身したブルックは、また僕をからかい始めた。

「またキスしてもいいかしら、ジミー?ああ、何もしなくていいのよ。あなたに、わたしのすることを止められるはずはないから」

 これらの言葉が、僕を戦慄させていた。それは、本当だった。今の僕に、彼女を止める力はなかった。もし僕が、本当に小さくなってしまったら、彼女は何をするのだろう。たとえば、一寸法師のようになってしまったら。

 「悪の魔女」は、信じられないことだが、僕の心を読んでいた。

「この爪を見てちょうだい、ジミー?」
 彼女は右手の人差し指を、僕の目の前でぴんと延ばしていた。パープルのマニュキュアが塗られていた。

「ここだけでも長さが、2センチ半あるのよ。定規を当てて、計ったんだから、間違いないわ。これから、わたしの家に来ない?あなたを、このサイズにしてあげるから。想像してみなさいよ。ブラの中にも、簡単に入れるわ。あたしの乳首だけだって、馬の胴体ぐらいに感じられるでしょうね。自由にまたがって、移動できるわよ。そのまま、学校の体育館に入っていくこともできる。他の女の子たちの様子を、気が付かれずに眺めることができる。女子更衣室にも行きましょう。ブラの中から、出てもいいのよ。テーブルの上に、置いといってあげる。好きなだけ、滞在してちょうだい。着替え中の女の子たちの光景を、じっくりと観察できるわ。半裸の巨大な女の子たちの胸に、優しく抱っこされたくないの?ジミー?」

 しばらくの間、僕は魅了されていた。しかし、ぶるっと身体が震えた。我に返った。この誘いは、もう三〇分間というもの、その巨大な肉体の下敷きにして、僕を囚人あつかいにしている、女の子の口から発せられたものなのだ。もし彼女の口車に乗ってしまったら、どんな人生が待っているのだろうか?わかったものではない。もし、彼女にそれが可能だったとしても、あまりにもリスクが大きすぎた。

「いいや、ブルック。僕はここ数年間というもの、なんとか大きくなりたいと思ってきたんだ。逆方向への成長ならば遠慮するよ。そして、これだけは言っておく。僕は、もう二度と女の子に、こんな罠にはめられるような、へまはしないと、ね。強くなってやる。それが、今までの自分を否定することになってもね」

 しばらくの間。ブルックは何も言わなかった。僕の顔を、ひどく真剣な表情で、じっと見つめていた。とうとう口を開いた。

「模範的な答え方だとは思うわ。おチビさん」

 隣の部屋に物音がした。僕達は、二人ともその音を聴いていた。両親と妹が、とうとう家に帰ってきてくれたのだ。よかった。ブルックは、まるで感電したように僕の身体の上から飛び上がっていた。背筋を真っすぐに伸ばして、座り直していた。僕の身体も、ぼんと爆発するようにして、もとのサイズに戻っていた。ようやくノーマルな状況に戻ったことを感じていた。

 妹のティファニーが、リヴィングルームに入ってきた。僕達二人が、同じカウチに並んで腰掛けている光景に、びっくりしたような表情をしていた。ブルックは、両足をドスンと床について飛び上がるようにして、立ち上がっていた。そうして、「もう帰らなくちゃ」と言った。僕の方は、ゆっくりと立ち上がっていた。痺れた両脚の、血の巡りが少しでも良くなるようにと、両手で揉みほぐすようにしていた。二階の自室に、よろよろと上がっていった。ティファニーは、そこに佇んだままでいた。考え深げな表情が浮かんでいた。それから、すべてを納得したように、うなずいていた。



5・ランチの列に並んで

 それからというもの、そんなに何度も、ブルックの姿を見かけることが、あったわけではない。しかし、僕が彼女の視野に入った時には、「あなたの気持ちは。分かっているのよ」という風な、意味ありげな微笑を向けてくるのだった。ウインクを、返してくることさえあった。そして、右手の人差し指を、ピンと立ててみせるのだった。あの「招待状」の有効期間が、切れた訳ではないのだということが分かった。しかし、僕には、それを受けるつもりは、まったくなかった。
 
 あの事件があった次の日のことだ。僕は自分が昨日迄とは、まったく別人になったような気分だった。自信に満ちあふれて、それぞれの授業のクラスに移動していた。悪いことは、何も起こらなかった。小さなことを、気に病むようなことも、なくなっていた。自分のサイズが、人生を楽しむためには、何の障害にもならないのだということが、分かったからだった。ある印象的な事件があった。

 正午だった。例によって長いランチ待ちの行列の、しんがりに並んでいた。背後から、女性的な艶めいた響きのある、美しい声を聴いた。

「あのう。ごめんなさい」

 そう言っていた。大きな指一本が、僕の肩を叩くのを感じていた。振り返って相手の顔を見たときには、あやうくランチのチケットを手から落とすところだった。

「君の名前は、なんていうのかしら?」

 それは、サリーだった。すべての男子学生の憧れのアイドルだった。何人かの潜在的な恋敵の男子学生達の視線が、僕達の方を眺めていた。

「ジムです」

 僕は深呼吸をしてから、そう言った。彼女が、次に何を言うつもりでいるのか、まったく分からなかったからだ。

「ジム。ごめんなさい。あなたのことを押し倒してしまって。助けることさえできなかった。悪かったわ。いつもの、私は決してあんなことはしないのに。昨日は、私にとって『悪日』だったのよ」

「僕もですよ」

「昨夜ね、その中でも、最悪のことがあったの。ボーイフレンドに、ふられたわ。その理由が、私が彼よりも五センチ、背が高いってことだけ。信じられる?あんな腰抜けの奴だとは、思ってもみなかったわ!」

 僕は、なんて答えてよいのかわからなかった。ただ「悪い日だったんですね」と言えただけだった。それから、何を考える暇もなく、口から言葉がほとばしっていた。

「僕は、あなたのプロポーションを完璧だと思っています!」

 サリーの固い表情が、和らいだように見えた。僕の顔を、試そうとするように、じっと眺めていた。それから、大きな笑みが大きな口元に広がっていた。

 僕は列の間に、隙間が空いていることに気が付いていた。振り向くと、また数歩を進んでいた。いきなりだった。二本の超特大に長い腕が、背後から僕を抱き締めていた。僕の胸元に巻き付いてきた。それから、きつく締め付けていた。柔らかく暖かい唇が、僕の頬に押し当てられていた。サリーの顔を見ることもできなかった。しかし、彼女の身体を、背中に感じることはできた。おお、そうだとも。たっぷりと、ね。

 それからというもの、僕がサリーに会ったときには、いつでも何をしていても、かならず、それを中断して、おしゃべりをする時間を作ってくれた。僕達は、友達になった。彼女が三歳も年上であったとしても、何の問題もなかった。僕達は、まったく異なるサイクルで動いていた。ひとつの講義も、重ならなかった。しかし、彼女は、いつも僕に対して大きな尊敬の念と、愛情をもって接してくれていた。だから、彼女が卒業して学校を去った時には、ひどく悲しい気持ちになった。

6・故郷の港

 それから、サリーとは十年も会っていなかった。彼女が住んでいた辺りの、ダウンタウンの通りを歩いていた時だった。偶然にも彼女が、車から下りてきたのだった。ブロンのヘアは、昔よりも少しだけ短くなっていた。ビジネス・スーツを着こなしていた。しかし、ハイ・スクール時代に知っていたのと同じように、美人であることに変わりなかった。僕もあれから、少しは成長した。以前の彼女に対してのように、歩く「人間山」であるかのような、圧倒されるほどの極端な大きさを、感じるということはなかった。それでも、僕は彼女と会話するためには、首を曲げて、見上げていなければならなかったのだが。


 僕達は、公園のベンチに座った。ずいぶん長いこと話をした。彼女は、弁護士になっていた。そう説明してくれた。近くに家を探しているとも言った。二人の十年の時間の隔たりは、雲が風に飛ぶようにして、どこかに流れ去っていた。僕の心に、あの馴染み深い化学反応が蘇ってきた。電話番号を交換して、幸福な気分で別れた。

 それから、あの二人は、どうなったのかって?僕の人生を変えた、二人の長身の女性たちのことだね。ブルックも、ハイスクールを卒業した。しかし、二度とこの街には、帰ってこなかった。ここ数年間の彼女の消息について知っているものは、僕の周囲には誰もいない。

                 *
 
 しかし、サリーについては、話せることがたくさんある。僕達の結婚五周年の記念日が、もう来週に迫っている。

(おしまい)
 


【訳者後記】

ネモ、ことナンバー10氏の、洒落たラブ・ストーリーです。あるブルック・シールズのファンの方の要望に応えて翻訳しました。彼に了解を得たので、公開することにしました。笛地も、『タクシー・ドライバー』や『青い珊瑚礁』の美少女時代よりも、巨人の才媛に成長してテレビのシリーズ物に出演していた時代の彼女の大ファンなのです。楽しく訳せました。ブルックの「招待状」を、笛地は断れないだろうなと思いました。巨乳のシーンも少ないのですが、お楽しみいただければ嬉しいことです。(笛地静恵)




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