小舟は空へ
ネモ・作
笛地静恵・訳
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0・『最悪の日』
その日は、僕のマイラード・フィルモア・ハイスクールでの学生生活の中でも、『最悪の日』だった。まず代数のテストで、それまでに一度も取ったことがなかった「D」ランクをくらってしまった。
体育の時間にも、恥ずかしいことがあった。体育館の天井から垂れ下ったロープを、調子に乗って、するすると上っていった。頂上までいった。そこで初めて、下りられなくなっている自分を発見したのだった……。体育館中の生徒たちの軽蔑の視線を浴びながら、そのままの態勢で、ぶらさがっていなければならなかった。
もっと屈辱的なことがあった。学校でも、もっとも長身の部類に入る女の子が、僕にぶつかってきたのだ。簡単に、ノックダウンされた。しかし、これらすべても、その後に続いた恐怖の体験と比較すれば、ほんの序曲に過ぎなかったのだ。……それは、僕が下校して、自宅に戻ってからのことだった。
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順番に説明すべきだろう。その頃の僕は、とても小柄な生徒だった。その下に立つと、身長計の棒の目盛りは、いつも遥か上空まで余っていた。体重も、五〇キログラムを、たいして越えてはいなかった。そのことは、ジュニア・ハイ・スクールの最後の年度までは、ことさらに僕を悩ませるという問題ではなかった。
しかし、今年度になって突然に、周囲の女の子たちが、まるで雑草のように、にょきにょきと大きくなっていった。信じれらないようなスピードで、僕の頭上に聳えるようになっていった。同時に、僕の方はと言えば、まったくさっぱりと、成長する気配さえなかったのだ。
ハイ・スクールは、本当にショッキングな場所だった。いきなり最高学年から、フレッシュマンという新人の立場になってしまった。上級生であるジュニアとシニアの女子生徒達は、僕の周囲を高い壁のように取り巻いていた。ただ学校の廊下を歩いているだけで、僕は巨人族の少女たちの脚と、お尻と、胸の、海原のただ中を漂流している、小舟になったような気分になっていた。まるで『巨人の国』に漂着した、ガリバーになった気分だった。
その恐怖の一日も、ようやく終わろうとする時刻になっていた。僕は廊下を最後の授業の教室に向かって急いでいた。偶然に、サリーの背後を通り過ぎることになった。彼女は美人で、学校でも有名な生徒だった。それに、マウント・エベレストよりも長身だった。ロッカーの中を、忙しそうに捜し回っていた。後を、まったく気にすることもなかった。いきなり、後ずさったのだった。超巨大なお尻が、僕を直撃していた。跳ねとばされていた。壁に激突していた。
呼吸ができないほどの衝撃だった。冷たいタイルの床の上に、座り込んでしまった。息を、あえがせていた。サリーは、そんな僕の頭上に、聳え立っていた。助けようとしていると思った。立ち上がらせてもらおう。片手を差し出していた。
サリーは、ただ鼻の頭に、しわを寄せただけだった。
「失神したわけじゃないでしょ、おチビさん?もう、だいじょうぶよね?」
ブロンドのヘアーをなびかせて、駆け出していってしまった。僕は、彼女が廊下の向こう側の端に消えるまで、ずっとその後ろ姿を目で追っていた。お似合いの長身のボーイフレンドが、待ち構えていた。二人は、抱き合ってキスをしていた。
あのサリーの唇に辿り着くためには、(僕は考えていた)登山道具が必要だろうな、と。
1・安全な港
どうしようもない『悪日』の学校の授業も、ついに終わった。自宅に戻ることで、僕は、ほっと安心していた。しばらくの間とはいえ、あの「巨人の世界」から距離を置いていられるからだ。宿題も、すぐに終わった。TVの前に座り込んだ。僕専用のカウチの中央に、ぽんと身を投げ出して座り込んだ。リモコンで、チャンネルを変えていった。
あるプログラムが、僕の手をストップさせていた。だれかが、あの聞き慣れた、海の歌をうたっていたのだ。
「波がジャブジャブ 逆巻く夜にゃ
小舟は 空に舞い上がる
だけど僕らは くじけない
すすめ『ハヤ号』 スイスイすすめ」
それは、もちろんあの「ギリガン島のバラード」だった。ああ、そうさ。僕は、思い出していた。子供番組に三〇分間を費やすとは、なんて素敵な気晴らしの方法だろうか?しかし、「ジンジャーとメリーアン」と、どっちにするかで内心の葛藤があった。結局、珊瑚礁に囲まれた安全な島で、ココナッツ入りのクリーム・パイと狩人に囲まれた、お笑いの世界に、一時、停泊することにした。
「スキッパー!」
ギリガンが叫んでいた。彼は、両手にいっぱいのココナッツの実を運んでいた。スキッパーが現われた。
「どうしたっていうんでサア〜。ギリガンさま?」
そこで、ココナッツの実が落ちた。スキッパーの足の上に。ああ、なんておもしろいギャグなのだろうか!僕は、まるで馬鹿になったように、笑いころげていた。
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玄関のドアのベルが鳴った。
「いったい、ぜんたい。いまごろ、だれが来たって、いうんでサア〜?」
僕は、自分にできる最高のレベルで、スキッパーの声色を真似ていた。快適なカウチの指定席から、飛び上がるようにして立ち上がっていた。そして、ドアに向かっていた。
それを開けた瞬間に、全世界が変容したのだった。
2・嵐の海
ブルックが、そこに立っていた。彼女は、僕の妹の友人のひとりだった。僕の家にも、何回か遊びに来たことがあった。
「ハイ。ジミー。ティファニーはいる?」
僕は、ブルックのことは、もう何年もの間、知っている。しかし、彼女には、大きな変化の季節が訪れていた。なんてこった!彼女は、巨人になっていた。少なくとも僕よりは、三〇センチは長身になっていた。僕の方が、一歳の年上なのだった。僕は自分が、彼女の爆発的な性徴の季節を、ほとんど知らなかったことに気が付いていた。最近は、しばらく会っていなかったのだ。
彼女の身体は、身長という垂直方向の成長にプラスして、さらに新しく魅力的な曲線を付け加えてもいた。彼女は暑い夏を通り過ぎる間に、女性としての成熟の季節を迎えていたのだ。天然のウェーブのかかった、長くて黒に近い茶色の暗い髪が、美しい顔を取り巻いていた。それに、あの形のくっきりとした意志の強さを偲ばせる眉毛。エキゾチックな茶色の瞳は、濡れたように輝いていた。
「ジムと呼んでくれよ」
僕は答えていた。
「ティファニーは、出掛けているんだ。両親とね。いつ帰るかも、聞いてないんだ」
僕は、もうドアを閉めようとしていた。番組に戻ろうと思っていた。
しかし、ブルックには、別のアイデアがあった。彼女は僕に、意味ありげな、ほほ笑みを返していた。脇を通り過ぎて、リヴィング・ルームに歩いていった。
「すこしだけ、待たせてもらうわね。ジミー」
長い脚で大股で歩いていくので、僕は小走りにならなければならなかった。
リヴィング・ルームに入ると、ブルックが最初にしたことは、僕のカウチの真ん中にどしんと座り込むことだった。
これは僕が、彼女の脇に座らなければならないということを意味する。しかも、かなり接近した状況でだ。どう考えても、普通の状態ではなかった。
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