エンパイア・シリーズ コスモポリタン
ゲイター・作
笛地静恵・訳
第3章 デリラ
16***
『銀河帝国ホテル』の屋上の執務室の窓から一望できる光景は、混沌と悪というものが秩序と正義の支配する世界に、圧倒的に侵入してきたことを証明する恐るべきものだった。
「アルマンド!わしに双眼鏡を持って来い!」
フィリップ・リッチモンドは、尊大な口調で部下に命令を下していた。伝統と歴史のある『銀河帝国ホテル』のオーナーとして、彼はすべてを自分の宰領のもとにおかなければ、けして満足できない性格だった。
すべては、彼が定めた規則通りに、実行されなければならない。つねに、どこに行っても、それなりの識見のある人物として、評価されてきたのである。
アルマンドは、目に明らかな恐怖の色を湛えて、双眼鏡を持ってきた。
「レストランの料理人達が、営業を中止すると申しております……」
彼は、ボスへの反抗心は、極力心に秘めて、表情に出すようなヘマはしなかった。慇懃に事実だけを伝達していた。
フィリップは、いかつい顎の口元を、真一文字に結んでいた。
「事態は、危機的状況ではある。しかし、もし、レストランが閉ってしまえば、いったいお客様たちは、どこで食事を取れるというのだね?」
彼は、マネージャーを鋭い目付きで睨みつけていた。肌の浅黒い男は、両手を神経質な様子で擦りあわせていた。
「料理人たちは、命をかけてまで、仕事を続けるつもりはないと申しております……」
彼は、白いスーツを着た白髪のボスに言葉をさえぎられていた。
「臆病者たちめ!」
アルマンドを一喝していた。
「彼らに伝えてやれ。もし、辞めるのであれば、ホテルを出た瞬間から、わしの狩猟用のライフルに狙い撃ちされるのを、覚悟しておくようにとな!」
野獣のような唸り声に、マネージャーは奮え上がっていた。
フィリップは、もともとオペラ観賞用の繊細な作りの双眼鏡を、その手の中で荒々しく握り締めていた。接眼部を眼窩に埋めるようにして、強く押しつけていた。高価な品物は、焦点のあった鮮明な画像を提供してくれていた。
外部の世界の二人の女どもの行動について、より多くの情報を得ようと勤めていた。しかし、今、二人がお互いにしていることは、紳士が口には出せないような、破廉恥な行為だったのである。
ダイアルを調節していた。双眼鏡の倍率を極限まで上げていた。緑の髪の女が、赤毛の女を相手に、みだらな女色に耽っている。その様子の一部始終を、食いいるような目付きで眺めていた。
もっと小さな女の姿が、視界に入ってきた。赤毛の女の膣に挿入されようとしていた。逃げようとして、必死にもがいていた。重低音の振動が、その光景を眺めている間にも、ホテルの窓硝子から床、さらには足元から彼の頭蓋骨までを振動させて伝わっていった。
二人としては、何かをしゃべっているのだけなのだろう。だが、声とうものは、もともと空気を震わす振動である。それが、言葉としての意味をなさないのだ。重々しい重低音の響きを伴った振動としてしか、五感に感じられなかった。
たぶん、彼の耳の鼓膜が、空気の振動を言葉として認知し翻訳して理解するためには、あまりにも小さすぎるのだろう。
フィリップは、双眼鏡から青い目を外していた。目の周りに赤い輪ができていることにも気がつかなかった。この事態の持つ意味について、しばらくの間、沈思黙考していた。
もし、あのひどい目にあっているのが、この都市の女だとする。あのサイズが、原寸のままであるならば、外部の世界のあの二人の女どもも、今、彼が考えているほどには、大きいサイズでは、ないのではないだろうか?
この都市を囲んでいる難攻不落の壁が、光を屈折させることで生み出した、錯覚であるのかもしれない。金魚鉢の中の魚にとって、外界が歪んで大きく見えるのと、同じようなものなのかもしれない。もし、そうであるならば、彼は自分の狩猟用のライフルで、彼女達を血祭にあげる可能性が生じてくる。
白髪の男は、象狩り用の特別製のライフルを、厳重に鍵のかかった強化ガラスの秘密の武器格納庫の内部から、取り出していた。愛らしいペットにするようなしぐさで、銃身を撫でさすっていた。
それを使って、最初に野生の獰猛な象を射殺した日の興奮を思い出していた。あれは、でかい奴だった。つねにオイルを塗っている。手入れは怠りない。すぐにも使用することができた。しかし、どこを狙えば、急所を打ちぬくことができるのか?慎重に狙いを定める必要があった。
ドアにノックの音がした。すばやく振り向いていた。銃口をドアに向けていた。針金のように痩せ細った女が、部屋に入ってきた。大声で喚きちらし、両腕を大きく振り回していた。
「奴らがくるわ。入ってくるわ。もう、誰にも止められない!死ぬのよ!!みんな、死ぬんだわ!!!」
熱に魘されたような表情で、フィリップに詰寄っていた。
一撃をくらわせた。それから、白髪の男は、何事もなかったように窓の外を眺めた。血のしぶきが、壁一面にべっとりと残っていた。女の頭部だったものの残骸が、部屋一面に飛び散っていた。ドアの外から、マネージャーが、おそるおそる室内を窺っていた。
「客の苦情処理ぐらいは、お前が対応しろ!」
フィリップは部下を一喝すると、部屋の窓際に片膝を立てて座りこんでいた。銃身を窓の手すりに固定していた。空が暗くなっていった。ビルディング全体が、激しく振動を始めていた。ビルディング全体だって?彼は両足を床に踏みしめていた。できるかぎり身体が揺れないようにしながら、照準器を覗き込んでいた。
17***
デリラとしては、できるかぎりデリケートに、薄いチョコレートの箱のような、ホテルのビルディングを持ち上げたつもりだった。
しかし、指の間で、一部分が潰れるのをどうすることもできなかった。
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