マットレス・ジャイアンティス
ナンバー10・作
笛地静恵・訳
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七月でも、特別に暑い午後のことだった。 ぼくはオフィスを出た。
歩きながら首の後の汗をハンカチで拭っていた。
背中まで拭きたかったが、そんなわけにもいかなかった。
理由はわかっていた。
あのくそったれのマットレスのせいだった。 おやじのお下がりの品だった。
それで、一夜のやすらかな夢を得ようというのが、そもそも無理な話だった。
背中が痛くて目が覚めるのだ。 仕事の疲れが取れるはずもなかった。
新しいものに買い替える潮時だった。
この地獄ともおさらばするのだ。 今日は、心に決めていた。
仕事場から、ほんのワン・ブロック向こうにある、新しいベッド売場に行こうとしていた。
気が付くと、いきなりそこに開店していたような感じだった。
おもしろいことだった。 ほんの一ヵ月前までは、そこは板金屋の廃車置場に過ぎなかったのだから。
(訳注:「廃車置場」abandaned placeには、「独身者の寝床」という意味がある。 他に「地雷源」という場合もある。)
それが、いまは照明の輝く新装開店の店に変身していたのだった。
宣伝のCMソングは、毎日のようにラジオから流れていた。
日曜日の新聞を開いた時には、あやうく膝のうえにコーヒーをこぼすところだった。
「マットレス・ジャイアンティスの世界にようこそ!」
広告は、誇らかに宣伝していた。
「生きているようなフィーリングを、あなたにお約束いたします!」
どうして彼らが、ぼくが本当に必要としている種類のマットレスを、こんなにまで的確に
予想できたのか、不思議でならなかった。
店の方に歩きながら、屋上に聳える、身長6メートルの、
巨大でセクシーなブロンドの女神の広告塔に、魅せられていた。
彼女は豹柄のドレスを身にまとっていた。
ぼくのことを、鋭い心を射抜くような視線で見下ろしていた。
こう言っているようだった。
「あなたは、〈私〉というマットレスを買う運命だったのよ!」
やれやれ。 この秘めた嗜好だけは、どうしようもなかった。
ぼくは、ようやく目を落としていた。 店の正面のガラスの自動ドアの間を、するりと通り抜けていた。
涼しい一陣の空気が、内部に入って立ち止まったところで、ぼくに来襲していた。
両眼が。 薄暗い照明になれるのを待っていた。 店員の姿を探して、周囲を見回していた。
ぼくは、紐タイをした太った若者の姿を見付けることになるだろうと、半分以上、予想していた。
だから、魅力的な女姓の姿を発見した時には、本当に驚いていた。
あの屋上のブロンド美人に、ちょっと似ていた。 ぼくの方に、歩いてくるのだった。
彼女は、こぼれるような笑みを見せていた。
「いらしゃいませ。 ようこそ『マットレス・ジャイアンティス』に」
かなりの巨乳の持ち主で、しかも、きつめの紫色のブラウスに、
黒の短いスカートを履いていることを、一瞬にして見て取っていた。
「フル・サイズのマットレスを探しているんだ。 できれば、そんなに高くないやつをね
」
「ああ、それでしたら、ちょっとお待ちください」
彼女は、あたりを見回していた。 ぼくがしていたように。
「それなら、レベッカが担当です。 レベッカ?」
ブロンド美人は、小柄な女姓を手招きしていた。
可愛らしいそばかす顔で、短い茶髪だった。 官能的なスタイルの持ち主だった。
最近の女姓のようにスリム過ぎないのが、ぼく好みだった。
外見的には、ブロンドの彼女とそっくりな体格だったのである。
「こちらのお客さまを、ご案内してさしあげて。 フルを、ご希望されています」
レベッカは、ぼくにほほ笑みかけていた。
同じような顔をしなければいけないような、魅力的な表情だった。
店の奥の方に案内してくれていた。 何枚かの、スタンダードなマットレスを紹介してくれていた。
それらの違いが見ただけでは、本当には、まったく分からなかった。
かといって、この可愛らしい少女を目の前にして無遠慮に、その上に寝転ぶわけにもいかなかった。
彼女は、ぼくの目の奥を覗き込むようにして見ていた。
なんだか、心の底まで見透かせているような気がした。
「お客さまが、ご希望の品物が分かりましたわ。 こちらへ、どうぞ」
メインの販売フロアーからは、隔離された小部屋に案内してくれた。
部屋の中央に、一台のベッドだけが置いてあった。
剥出しの新品のマットレスが、一枚だけ乗っていた。
クィーンサイズのものだった。 フルではなかった。
彼女がいきなりしゃべりはじめた時には、ぼくはもう断る気分になっていた。
「一度、おためしになってください。 ご遠慮はいりません。
だれも見ていませんから。 もちろん、わたくし以外はですけど」
あの美しい微笑が戻ってきていた。
彼女の口調にこめられた何かが試してみろとけしかけていた。
靴を脱いでベッドの上に上った。 広いマットレスだった。
真ん中に移動し、横になった。 ため息がこぼれた。
すばらしい感触だった。 首と背中は、たちまち痛みを止めていた。
天国に居るような気分だったのだ。 こいつは本当に「生きている」ようじゃないか。
レベッカは、ぼくを何だか探るような目付きで見下ろしていた。
「ちょっと、オフィスからもってくるものがあります。 すこしお待ちくださいね」
ぼくは、無言でうなずくだけだった。 もう眠気を覚えていた。
薄暗い照明、涼しい空気、そして他に比べようもない快適感。
それらが合わさって、今までに体験したこともない、やすらぎの空間に導いてくれていたのだった。
本当に眠っていたのかもしれない。
しかし、彼女の声で目を覚ましたというような感覚もなかったのだが……。
「お楽しみでしょうか?」
ぼくは、目を開いた。
なんだかレベッカが、大きくなっているように見えた。
ベッドも同じことだった。
もうクィーンサイズではなかったのだ。
いうなれば、クィーン・コングのサイズに変化していた。
自分が広大な隆起した表面の、ちっぽけな染みに過ぎないかのように感じていた。
セールス・ウーマンは、ハイヒールの靴を滑らせるようにして脱いでいた。
ぼくの脇に寝そべるようにしたのである。
その効果は、信じられないようなものだった。
彼女がそこに座っただけで、マットレスが彼女の体重によって急速に沈み込んでいった。
ぼくは彼女のいる方向に、さらにころころと転がっていた。
とうとう彼女は、片方の肘を付くようにして脇腹を下につけて寝そべっていた。
ぼくの方に顔を向けていた。
巨大だけれども、愛らしい顔が動いていた。 やさしく話し掛けてくれた。
「わたくし、お客さまは、クィーン・サイズのベッドで、十分に満足されると思います。
それに、わたくしがついておりますわ」
ぼくは安心していた。
彼女の口調は、穏やかで自然だった。
ぼくのサイズの何倍も大きいということを感じさせるような、威圧的なところは何もなかったのだ。
「このマットレスは、睡眠をやすらかに守ってくれます。
もし、彼女がごろりと上に乗ってきたとしても、あなたは何も感じないでしょう。
わたくしに、ちょっとためさせてくださいね」
レベッカは、ゆっくりと巨体を回転させていった。
途方も無く巨大な乳房が、ぼくの頭上に来る位置になるまで移動していった。
ブラウスの表面のしわの形から、ノーブラであることがはっきりとわかった。
ぼくは、悲鳴をあげようとして口を大きく開いたはずだ。
しかし、喉の奥からは何の音も出て来ることはなかった。
彼女の巨大な手が器用に、ブラウスのボタンをはずしていった。
巨人の肉体が、中からぼろんと飛び出して来た。
ぼくの上に下降して来る物凄い光景に、喘いでいることしかできなかった。
周囲の光と音のすべてが、遮断されていった。
全世界が、たっぷり十秒間の間、心地よい深淵という名前の闇に包まれていた。
レベッカはその大きな体を上げて、ぼくを解放してくれた。
巨大な彼女は、自信に満ちた笑みを浮かべ、ベッドに横たわる僕を見下ろしていた。
「おわかりになりましたでしょうか?
わたくしどものマットレスは、あのままの態勢でも一夜の安眠を、お客さまに保障いたします」
ぼくは、認めなければならなかった。 不愉快なものは、まったくなかったのだ。
「さて、それでは、もう少しだけためしてみましょう」
彼女は、ささやくようにそう言った。
「次は、わたくしのお尻で試してみましょう。 もしご希望であればですけど?」
ぼくは、そうした。 なぜかと言えば、彼女の言葉を信じていたからだ。
ぼくは、彼女の中央部の位置に来るまで、マットレスの上を歩いていった。
そして、あの黒いスカートの傍らで立ち止まっていた。
レベッカはお尻を、ベッドから持ち上げるようにしていた。 スカートを脱いで行った。
その下には上と同じように、何の下着も履いていなかった。
まるで、夢遊病者になってしまったようだった。
ぼくは、形の良い臀部の真下に開いた暗い空間へと、ゆっくりと足を運んでいた。
再び。 巨大女姓の肉体が、下降して来たのだった。
感じていたのは、今度も快適感だけだった。
押し潰されているような感覚も、窒息感もまるでなかった。
ただ厚くて暖かい寝具に、全身をすっぽりと包みこまれているという感覚だけがあった。
超重量級の臀部が上昇していった。
ぼくは、その真下から這い出していた。
「おわかりでしょうか。
もし彼女に、ベッドの大半が占有されていたとしても、快眠がお約束されているのです。
お買い得な品物ではありませんか?」
ぼくは、熱心にうなずいていた。
彼女にも、自分のセールスが成功を収めかけて居ることは、よく分かっていたはずだった。
しかし、手を抜くようなマネは絶対にしなかった。
「もうひとつだけ別な状況を、お客さまに体験して頂きたいと思っています。
横になって、両脚を大きく開いて頂けませんか? このようにです」
女巨人は、彼女の超巨大な両脚を大股開きにしていった。
そのために、それらはぼくの両側に、肉の長くて高い壁となって聳えていた。
ぼくの視野に入るものは、彼女の巨大な性器だけだった。
それに、丸みを帯びた急斜面を作る、内腿の皮膚だけだった。
男が、いつかどこかで、夢に見たことがあるような光景だった。
ぼくは、この場所を探険したかった。
しかし、あの指示を思い出していた。 横になって、彼女と同じように両脚を開いていた。
レベッカランドで、思うままに遊んでみたいという衝動と必死に戦っていた。
しかし同時に、以前と同じような穏やかな気分にもなってきてもいた。
レベッカは、上半身を持ち上げて、ぼくのことを見下ろしていた。
「よくできました。 申し上げましたように、ここには、お客さまのための
十分な空間がございます。 それに、彼女の……」
「買う!」
ぼくは叫んでいた。
「買うとも!」
「ありがとうございました。 それでは、購入の手続きをしてまいります。
もうしばらくの間、この場所でリラックスしてお過ごしくださいませ」
巨大女性は、左脚をぼくの頭上を通過するようにして、動かしていった。
ベッドから下りて、立ち上がっていた。
ブラウスのボタンをしめた。 黒いミニスカートを持ち上げていった。
感謝の笑みを浮かべてから、ドアの方に、お尻を左右に揺らしながら歩いていった。
ぼくは頭をやわらかいマットレスの上に戻していた。
瞳を閉じていた。 疑問が心に中に渦巻いていた。
ここで起こったことは、すべてが現実のことなのだろうか?
ぼくは、もとの大きさに戻れるのだろうか?
レベッカの今夜の食事の予定は、空いているだろうか?
あるいは、それとも、これで人生の何もかもが、終わりになるのだろうか?
これらの考えが頭の中で、ぐるぐると回転していた。
そのために、いつのまにか自分と同じ大きさの女姓が、
ベッドの脇に立っていることに、気が付かなかったくらいだ。
それはレベッカのようだった。
ということは、ぼくの体は元の大きさに戻ったということだった。 ため息をついていた。
レベッカは、ベッドのぼくの隣に腰を下ろしていた。
クリップ付きのボードに、注文書を挟んでいた。
彼女はサイン用のペンを、ぼくに手渡してくれた。
ぼくがそれを手に取る前に、彼女はそれをすっと自分の方に戻してしまっていた。
よく分からなかった。 彼女の方を見た。
「サインをして頂く前に、ひとつだけ言い忘れていたことがありました。
お客さまは、そのう……、このマットレスが持っている、ある種の……、そのう……。
効果というものに、お気付きなったことと思います。
しかし、もしお買い求めになったとしても、それと同じことを、ご家庭で体験することはできません」
「できないのですか?」
ぼくは、落胆した表情を浮かべたのだと思う。
彼女も、それに気が付いたのだろう。
なぜなら、自分の名刺を取り出して、裏側に何事かを書いていたからだ。
「これを、お渡ししておきます。
マットレスの魔法は、お客さまのご自宅では効果を発揮しないかもしれません。
しかし、わたくしがいれば、それは、ここと同じ、すてきな魔法の力を、
どこでも持つことができるのです。 こちらに電話してくださいね」
レベッカは、ぼくの手に名刺を渡してくれた。
それから、ぼくの顔を、大きなきらきらする瞳で、じっと見つめていた。
ぼくは、ほっと息をついた。 握手をして手続きを終了させた。
『マットレス・ジャイアンティス』の幸運な顧客のひとりになれたのだった。
真夏の酷暑の空気の中に、身体を飛び込ませるような覚悟で外に出た。
仕事に戻るために、通りを歩いていった。
その時、ちょっとした疑いが脳裏に浮かんだ。
危険物でも扱うようにそっと 注意深く、 彼女の名刺をシャツのポケットの中に手探ぐりしていた。
裏を見ていなかったことに気が付いたのだ。
取り出していた。 表を一瞥してから、すぐに引っ繰り返していた。
裏を眺めた。
そこには、会社と同じ電話番号が書かれているだけだった。
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(了)