マチスンの主題による変奏曲第3番 前編
(十八センチメートルのころに)
CLH 作
笛地静恵 訳
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【訳者注記】
「第3番」では、スコットはもう十分の一ぐらいになっています。
人形の家に住んでいる段階です。
ルイーズもベスも、クリスマス・パーティーに出掛けた家の中で、一人淋しく自伝の原稿を書いています。
そこに、パーティを早退してきたルイーズが帰ってきます。
酔った彼女は、彼と二人だけの夜を過ごしたいといいます。
クリスマスの夜のちょっと良い話です。 人形の家の屋根にルイーズのブラとパンティがかかり……。
これから二人を待ち受ける、残酷な運命を知っている読者には、複雑な感動を残す一篇です。
(笛地静恵拝)
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ルイーズは、顔をドール・ハウスの窓に近寄せていた。 (本文より)
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「人形」という単語を書き終えたところで、時計のアラームが、鳴り始めた。
彼はノートのページから、ペーパー・ウエイトにしていた白い石を持ち上げた。
ベスが庭から、見付けてきてくれたものだった。
長い間、書き物をしていた。 片手をぶらぶらと振りながら、部屋を横切った。
ボタンを押して、耳障りな轟音を黙らせた。 これもベスに手助けしてもらったのだ。
腕時計を、プッシュ・ピンでリビング・ルームの合板の壁に止めていた。
腕時計は、壁の上から下まで、柱時計のように大きな顔をして、重々しくぶらさがっていた。
静かな夜だった。 クリスマスなのだ。 ふいに、そのことに気付かされたような気がした。
ソファーにもどり、テリークロスの縞柄の布を、何枚かに畳んだ上に座った。 それは「家」の女性陣が、
固い皮張りのソファの座り心地を、彼のためにいささかでも改善しようとして、工夫したものなのだ。
ベスは友人の「家」でパーティをするといって、外出している。
ルイーズもオフィスのクリスマス・パーティに出席していた。
彼女は、会社の仕事はとうに退職していた。
彼の著書の印税が、かなりの金額で、入ってきたからだった。
しかし、昔のオフィスの仲間に、もう一度会いたがっていた。
彼は自分の反対意見を口に出して、言うことが出来なかった。
結局の所、十二月二十四日なのだから。
彼は、孤独な気分に浸っていた。 大きくため息を吐いた。 キッチンに入った。
テーブルと四脚の椅子がある。 客が来たことはない。
水道からは、屋上のタンクに水が補給されていれば、水が出る。
ルイーズは、それを欠かしたことはなかった。
水洗トイレも付いているのだ。 シャワーもたっぷりと使える。
クリスマスのクッキーの一かけらを手に取った。
トナカイの角の形をしたジンジャー・ブレッドだった。
実際の所、クッキーはトナカイの形をしているものの頭部の、そのさらに一部分だった。
本物のクッキーの一枚は、今の彼にはほとんど小馬ぐらいの大きさがあった。
全部を食べることなど、とうてい出来ることではなかった。
それに、キッチンに、お菓子の粉を撒き散らすことになってしまう。
巨大な昆虫の侵入という、リスクを犯すことになってしまう。
そのために、食べ掛けのジンジャー・ブレッドを、ビニールの袋のなかに、包装したままにしておくと
いう細心の注意を忘れなかった。
リビングの壁の腕時計の液晶のデジタル文字が、0805を表示して、青白く点滅している。
もう少し書き物を続けたい心境だった。
しかし、一日中、その仕事をして来たのだし、そろそろ辞める頃合だということも、分かっていた。
目と肩に疲労が蓄積していた。
家のなかでも、もっとも広い部屋であるリビングで、手足を伸ばして簡単な柔軟体操をしていた。
目の前には、煉瓦を積んだ暖炉があった。
ニクロム線があるので、電気を通通せば暖が取れる。
もっとも、煙突は、ただの飾りだった。 薪を燃やすことはできない。
二階の寝室にも、これと同じものが付いていた。
一階には、他に書斎と客間が二間あった。
一つは洋服部屋で、もうひとつは、もっぱら他の日用品の倉庫になっている。
たとえば、トイレット・ペーパーのような類である。 書斎は使っていない。
空き部屋では、ぐるぐる走り回ったりランニングをしている。
たしかに、彼のサイズでは、ものを書くということは、もっとも適した単純な労働に思えるだろう。
テレビを見たり、電話を受けたりすることよりも、努力を必要としないのだ。
しかし、それは必ずしも、楽な労働という訳ではなかった。
普通の尖らしていない新しい鉛筆は、彼よりも背が高かった。 たとえ、世界最小のキーボードと
言えども、それを打つことは、テニスコートを駆け回るぐらいの重労働だった。
一度は、携帯用のテープレコーダーを使って、口述筆記をしてもらおうかと、考えたことがある。
出版社もそれを了解し、日本製の小型で高性能の器械を準備してくれた。
人間の声に反応し、それだけを録音するという機能を持っていた。
スイッチを入れたり消したりする手間を、省くことが出来る。
しかし、彼にはその器械が要求する声の大きさを、長時間持続することが出来なかったのだ。
結局の所、思い出を一つ一つ筆記するという古典的な方法に、戻らざるをえなかった。
シャープペンシルの芯を、そのままに筆記用具として使ってきた。
ある女性編集者が見付けてきた、世界最小のノート・ブックに
(それすら彼にとっては、新聞の全紙大の面積があったが)書いていった。
彼としては、出来るかぎり大きい文字で、それに書いていく。
ノートが一冊埋まるたびに、ルイーズが出版社に持っていくのだ。
紺色のビジネススーツが似合う才色兼備の女性編集者が、それぞれのページをコピー機で、
可能な限り拡大しようとして、かすれる文字と格闘している光景を、皮肉に思い浮べていた。
コピーしたものをさらに拡大する。 次第に判読可能な大きさの文字にしていく。
そんなことを考えたからといって、心に喜びを覚えるわけではなかった。
しかし、止められなかった。
実際は、コンピュータの画面に読み込んで、デジタル処理をしているらしい。
一度だけ、担当者として、自宅で面会したとき、彼女はそんなことを言っていた。
その眼鏡の奥の目に、きらめく欲望の色を、彼は見逃さなかった。
男からも女からも、そんな目で見られてきたので、肉体を売るある種のモデルのように、
視線には敏感になっていたのだ。
彼が、わざと床を歩いて、彼女の紺のタイトスカートの脚の間に、歩いて行ってやったときの、
あの両脚の震えの可笑しかったこと。
青いハイヒールの踵が、床をドラムのように神経質に打ち鳴らしていた。
それから、彼女は、わざと視線をそらしながら、何気ない風に股を開いて、
彼に下着を見せるようにしたのだった……。
スコットは意味もなく、家の二階に木の階段を上がっていった。
あの仕事熱心な女性編集者は、電話をすれば、クリスマスの夜にでも原稿を取りにくるのだろうか、
とふと思った。 自宅の番号まで教えてくれていた。 しかし、これは馬鹿げている。
出版社も、彼女の「家」も、この大陸の東の端にあるのだから。
彼の足の下で、踏み板が鳴って、耳障りな音を立てていた。
二階も四部屋あるが、彼は一つしか使っていない。 一人住まいには広すぎるのだ。
あの時、家の二階の寝室のベランダから、ルイーズにさよならを言ってから、もう小一時間が
経過していた。 彼は、その窓の方を眺めていた。
「これで、あなたのご用は、もういいかしら」
ルイーズは、寝室のあそこの窓から、笑顔を覗かせて、彼に確認をしてきていたのだ。
濃厚な香水の臭気が、鼻を突いた。
タイトスカートから伸びた膝を床について、顔をドール・ハウスの窓に近寄せていた。
鼻息に窓ガラスが揺れていた。
「もし、他に用事がなければ、そろそろ、出掛けることにするわね」
彼女は、赤と金のスカーフを首に巻いていた。
明るい新緑を連想させる、柔らかそうなカシミヤのセーターを着ていた。
窓の外に、思わぬ春が着たような明るい情景だった。
いつもパーティーがある日に、身に付けてきたものだった。
彼は、それが胸のふくらみを強調してくれるのが、好きだった。
もう何年も昔のことになるが、化粧したりしているときとか、帰宅して洗顔したりしている時に、
背後から手を回して、セーターの上から、カシミヤと乳房の感触を同時に賞味するのが、
彼の習慣だったのだ。
ベランダの手摺りに、肘を凭れて、皮肉に答えている自分の後ろ姿を、そこに見ることが
出来るような気がした。 その向こうに、カシミヤの緑の小山が、聳えていたのだ。
「もういいよ。……いつもこの家に、一人で住んでいるようなものだから、慣れているからね……」
ルイーズに言い付けていた細々とした用事も、種切れだったのだ。
そう言いながら、人形の家の手摺りを、強く握り締めていた。
手の震えを妻に見せたくなかったのだ。 彼女は、彼の一挙手一投足に、ひどく敏感だった。
「あなたの望む時間に帰ってくるわ。スコット」
彼女は、微笑みかけていた。
その雄大な体格にもかかわらず、いまでもゴージャスな美しさを充分に持った女性だった。
スコットは、寝室のベッドの絹のシーツの中に、服を脱いで全裸になるとつるりと潜り込んだ。
素肌への絹の感触が、気に入っていた。
それは、彼の皮膚を傷つけない、唯一の繊維だった。 その抱擁に身をまかせた。
これもハンカチーフから、ルイーズが二枚を縫い合わせて作ったものだった。
妻の美しい外出の際の顔が、格子の木組みの細かい重厚な天井に浮かんでいた。
今夜は、ここ数ヵ月間はなかったほどに、髪の毛の手入れを入念にしてあった。
その効果は素晴らしいものだった。
窓枠の向こうが、映画のスクリーンになっていて、
美しいルイーズの顔が、大写しになっているようだった。
違うのは、それが原寸大なのだということだった。
本当の所、彼女が、他の巨人の人間たちと、パーティーをすると考えただけで、
彼は吐き気がするぐらいだった。 あのノーマルな、不恰好で恐るべき人間たちと。
酒を飲み、笑いさざめき、キスを交わし、時にはダンスをして、抱き合うのだ。
しかし、彼には、止めろという理由など、何もないということも分かっていた。
あの女性編集者は、電話で「娘さんとのことと同じぐらい、奥様との生活についてもお書きに
なってください」という。 分量が偏っているというのだ。
一見、客観的な感想だが、真意は分かっている。
その喉に痰が絡むような、妙に擦れた声からそれと分かる。
「一女性読者としては、興味があります」
つまり、「奥様との生活」というのは、SEXなのだ。
しかし、これについて書けることは、本当に何もないのだ。
妻の片方の乳房の、質量にも満たぬ肉体の男に、何が出来るだろうか。
そこだけで四、五〇〇キログラムの肉の塊なのだ。
それならば、ちっぽけな夫として寛容を示し快諾して、楽しい時間を過ごさせたかった。
肉体的には、指を触れることすら長い間していなかったのだ。
ルイーズを「家」のなかの篭の鳥としているのは、彼のわがままな意志なのだ。
クリスマスぐらいは、自由にさせてやるべきだった。
すくなくとも夫婦の一人は、楽しい時間を過ごせるのだ。 悪いことではなかった。
「そろそろ出掛けていいよ。 今夜は、楽しんでおいで」
あの時あの声に、皮肉がこもらないようにするためには、ありったけの意志の力を、必要とした。
彼女は、彼にほほ笑みかけると、ゆっくりと立ち上がった。
ルイーズは、こういう時、だれよりも細心に行動する。
しかし、家は地震のように震えた。 無理もない。
彼の家の、形ばかりの煙突の先端でも、彼女の太股の、半分までの高さしかなかった。
今夜のタイト・スカートの縁よりも、低かったのだ。
ハイヒールの片足が上昇すると、突風が窓ガラスをちりちりと鳴らした。
彼女の身長は、彼にとっては十七メートルに値した。
試算では、彼女の体重は、彼にとって、概算で50000キログラムになる。
50トンの古代の恐竜のような生き物が、家の周りの地面を動き回るのだ。
衝撃があって、当然だった。 彼も、心得ていて、しっかりとした作りの木の手摺りを、
注意深く握り締めて、跳ね飛ばされないようにしていた。
「遅くならないうちに、帰るわね」
足の引き起こす轟音と振動が、和らいでいった。
家は、振動に良く堪えていた。 そして、ついに出ていったのが分かった。
ベッドの中で、巨大な美しい妻を「オカズ」にして、二回のオナニーをした。
それから、空腹を感じて上半身を起こした。 服を着て、寝室を出た。
二階の踊り場からは、落ち着いた農家のような頑丈な作りの一階の部屋が、見下ろせた。
フランスで古い時代に荘園領主が住んでいた、豪壮な農家造りのレプリカらしかった。
すべてが、一人の七十歳を超えた老女の、手作りとはとても思えなかった。
彼の本を読んで、この家を無償で送ってきてくれた。
人形の家の、世界的に有名な作家の一人らしかったが、名前も思い出せなかった。
フランス人だということだった。 買うと、相当高価らしい。 感謝するべきだった。
ただ彼の繊細すぎる目は、壁紙の糊の端に、巨大な老女の指紋の後を見付けた。
何だか不潔な気がして、そこには手を触れないようにしていた。 廻り階段を下った。
また、キッチンに入った。
彼はトナカイのクッキーの、丸い鼻先の部分を一口齧ってみた。
そういえば、これも繊細な手仕事で作られたと分かる、クリスマスのリース飾りを、彼女たちは、
玄関のドアに掛けてくれていたはずだ。 それを見に、玄関の外に出て、マットの上に立っていた。
鈴が付いていて、指で触れると澄んだ音を立てた。
ベスと昨夜一緒に見た、テレビのマンガ映画のショーを思い出していた。
そこでは、捨てられたおもちゃの島に上陸するというエピソードが、語られていた。
自分が、まるでその島の一員になったような気がしていた。
ソファに戻った。 なぜか落ち着かない気分で、一ヶ所に座っていられないのだ。
ベスと一緒にテレビを見ながら、同時に書き物も続けていた。
それで、その部分のノートを見開いてみた。 ページをめくりながら、読み返してみた。
いくつかの注意力散漫からくる、スペルのミスを発見したが、そのままにしておいた。
あの女性編集者のために、残しておいてやったのだった。
あるいは、校正の担当者が見付けて、訂正すれば済むことである。
今夜は、間違いを巨大な消しゴムで、消すことさえひどく面倒だった。
*****
「私は、シャワーの後で、全裸で服を選んでいる最中でした。 膨大な洋服のコレクションの中から、
出来るかぎり、快適に身体にフィットするものを探していたのです。
(ほとんどが、読者のみなさんからのプレゼントです)
その時、選んだものは、レジャー用の白のバミューダ・パンツと、ゴルフ用の赤いTシャツでした。
元来が、プラスチックのボディ用にデザインされたもので、柔らかい生身の体には、
あちこちに不都合な部分があることは、納得してくださると思います。
快適なものは、残念なことですが、ごく少ないすのです。
問題は、裏地の縫い目の処理にあるようです。 表面的な、可愛らしさは不必要なのです。
その時、ベスが部屋の中に入ってきました。私の家の脇に座りました。
私のサイズでは、他の人間たちの動きを、音だけで容易に区別することが出来るのです。
もっとも、この家にいるのは、妻と子供の二人だけなのですが。
玄関のドアに、ノックの音がしました。
ベスが、指先で突いているのです。 私は、忙しかったのです。
しかし、外に出ていくまでは、彼女が、絶対に立ち去らないということも、分かっていました。
もし、しばらく出ていかないと、私の家を壁から動かして、姿を是が非でも見付けだそうとするのです。
想像できるでしょうか。 二階建の豪壮な八部屋はある家が、横にスライドしていくのです。
それは、大地震が発生したような一大事なのです。
以前に説明したように、ここは二階建のフランスの荘園風のスタイルの家の中です。
木と合板で作られています。 私にとっては、壁は十センチの厚さのある頑健な作りでしたが、
ベスにとっては一センチのベニヤ板なのです。
両手で、体重を掛ければ、簡単に移動できます。
その怪力ぶりを、何回か実地に証明してくれていました。
大地震の後のように、室内が惨憺たる情況になるのです。
この家の屋根のいちばん高いところでも、彼女の腰にも届かないでしょう。
気に入っている点は、現代の工業製品の、あの軽薄なプラスチックが、
ほとんど使われていないということです。 これも読者の手作りなのです。 有り難いことです。
ベニヤの壁は、家の前と左右の三方にはありますが、後側にはなにもありません。
普段は、その面は「家」の壁に付けられて設置されています。
今の、私にとっては、ここが生活と仕事の場になっています。
私と妻は、家のリビングルームの壁が、元々の「家」の電気のソケットが来るようにな位置に
なるように設定しました。 そのために、家には電気が通じています。
温水の給湯施設があります。 シャワーも浴びられます。 配線があり、
豆電球の電線が慎重に壁紙の下に隠された、間接照明の設備もあるのです。 暖炉もあります。
ズシン。 ズシン。
またドアをたたく、重い音がしました。床が震えています。
「ノック、ノック」
ベスが、口でも催促をしています。
私は、玄関のドアのノブを回しました。 いや、言葉の綾です。 ノブは回転はしません。
それは、そこに、ただ付けられているだけです。
目の前の玄関マットに、バービー人形が立っていました。
ベスの三本の指が、人形の細い腰を握っていました。 直立不動の姿勢を取らせています。
どこかの航空会社の、スチュワーデスの制服を着ていました。
背景には、ベスの大きな顔がありました。
彼女は私の顔を見るために、胸を床に付けて、腹ばいになっています。
「こんにちは、ケアリーさん。
私は、あなたと、楽しい一時を、過ごそうとして、ここにまいり、ました。 のよ」
ベスは、意識的に低い声を作っています。
大人の女性として。 上品に。 社交的に。 知的に振る舞おうとしていました。
人形は、話をしているときの人間の動作を真似て、前後左右に微妙に身体を揺すっていました。
私は情況の珍妙さにも関わらず、大きく声を上げて、笑いださずにはいられませんでした。 ベスが、
私の顔を注目しているのを、知っていたので、彼女を幸福な気分にさせてやりたかったこともあります。
今回の私の生活への侵入の仕方は、独創的なものでした。
子供というものは、素晴らしいことを考え付くものです。
彼女が私にとって、十三メートル以上の身長があろうと、それに相違はありません。
しかし、バービー人形と、どんな風にすれば「楽しい時間」を過ごせるのかわかりませんでした。
一つには、私の視点からすれば、優に二メートル以上の長身の女性だったからです。
いろいろな理由から、最近は、大柄な女性は好みではないのです。
正面に立っていると、ありえないように高く前方に突き出した胸が、
顔面を圧迫してくるような感じがするのです。
瞳と唇に、白痴的な微笑を浮かべたまま、私の頭上のどこかの空間を、見つめていました。
娘が自分を、父であり大人であり、一人の人間として扱ってくれることを、知っていました。
サイズがどのように変身しても、その態度に決して、変化はありませんでした。
しかし、ときどき、設定した遊びの情況の下で、
彼女だけが理解しているルールに、私にも従うことを求めてきました。 それで今回は、
自分よりも大柄なバービー人形と、面会するという情況に、対応せざるをえませんでした。
お客様は、自動車一台分の大きさがある、テディ・ベアであることもあったのです。
相手がなんであるかは、ベスが決めることでした。
それで私は、バービー人形が家のなかに入れるように、道をあけました。
玄関のポーチの上に出ました。 ベスの顔を見上げました。
今すぐには、仕事が忙しくて遊んでいられないという理由を、ていねいに説明しました。
彼女は、溜め息を吐きました。
その風が、私の立っているところにまで吹き下ろしてきました。 甘いガムの匂いがしました。
「でも、バービーちゃんは、あなたに、スペャル・サービスが、したいとおもって。
ここにきましたのよ。 ですわ」
「スペシャル・サービス」 彼女が、どこでその言葉を仕入れてきたのか、分かりません。
バービーちゃんは、今はむしろベスと遊びたいんじゃないかな。 そう辛抱つよく説得しました。
ピンクのワンピース姿のベスは、そこにずっと蹲ったまま、ピンクの塔のように動きませんでした。
私のことを、恨めしそうな目付きで、見下ろしていました。
あなたは、それからベスが私のことを持ち上げて、バービー人形と好きなだけ、
お人形遊びをしたのではないかと、想像をたくましくされるかもしれません。
しかし、二人の間で緊張した時が流れる間も、そんな緊急事態になることは、
全く予想もしていませんでした。 たしかに、彼女と比較して、私がこれほど小さくなっている今では、
何が起こっても不思議はないでしょう。 その時は、ルイーズも買物で外出していました。
「家」の中は、私たち親子の、二人きりであったのです。
しかし、彼女は私に対して、今まで一度も、そのような無礼な振る舞いに出たことはありませんでした。
私たちにしても、ベスが遊びに熱中して興奮するあまり、なにかそのような破滅的な行動に出るの
ではないかと、不安になっていた一時期はあります。
しかし、幸いにもこれまでは、そのような不幸な情況にいたったことは、一度もありませんでした。
彼女は、私の目の前で、上半身を起こして、ゆっくりと座り込みました。
私の足元のポーチが鳴動しました。
そうしていると実際に、ピンクのワンピースの身体は、私の家とほとんど同じサイズがありました。
私と、自分の手のなかのバービー人形を、見比べていました。
彼女は、情況を理解しているのです。 ただ立ち去る決心が、付かないでいるだけなのでした。
私は、真剣に対応策を考えました。
そして、今夜、彼女の大好きなテレビのマンガ番組があることを思い出したのです。
私は彼女に、今晩一緒にその番組を見ることを、約束しました。
彼女は、私の仕事を励まそうとするように、「フレーッ」と球場いっぱいの大歓声に匹敵するような
大声で、両手を大きくあげました。 突風が、私の髪を揺らしました。
一人だけの大応援団を演じてくれていました。
私は、彼女に、屋上の水タンクに、水を少しいれておいてくれと頼みました。
ルイーズが、こまめに補給してくれるのですが、私のシャワー好きの習慣から、
出が悪くなっていました。 水の量が少なくなって、圧力が不足しているようでした。
すると彼女は、両手を腰に当てて、厳しい表情で、私の頭上に、ゆっくりと聳えるように立ちました。
十数えながらです。 私が教えた通りでした。
ビルディングのような巨人の身体の移動は、それが妻子であっても、常に恐怖の対象だったのです。
慣れることは出来そうにありません。
水平よりも、垂直方向の動きの方が、衝撃度は高いのです。
ピンクのフレアスカートが、私の頭上にまで広がって、雲のように覆い被さって、傘を作っていました。
広告の看板のように大きなミニーマウスが、家の屋根よりも高いところで、手を振ってくれています。
ベスの下着についた絵でした。
「人に、ものをたのむときには、なんというのかしら?」
こういう時の娘は、本当に妻にそっくりな目付きをしています。
すごい迫力です。 家の二倍の高さから、ベスの妻に似た目が見下ろしているのでした。
「プリーズ」
その言葉は何のためらいもなく、私の口から出ました。
「okay! すぐもどるわね」
彼女が部屋から歩いて出ていくのに連れて、玄関のポーチも、ズシン、ズシンと、振動していました。
台風と地震が、つねにこの家の周囲には襲来しているようなものでした。
私は、ポーチの柱にしがみついていました。
繰り返しますが、彼女は私が小さくなってからも、一度として、力と権威を持って望むような真似は
しませんでした。 彼女の行動が、今、大きく威圧的に変化した理由は、大人と接するときに、
そうするように教えた礼儀作法を私にも要求しているに過ぎないのです。
いつでも、人にものを頼むときには、「プリーズ」。 それを、してくれたときには「サンキュー」。
その二つが、私たちの教育方針のすべてでした。
もし、私がそれを忘れると、ルイーズや私が教えたのと全く同じ態度で、それを注意をしてくるのでした。
たしかに、他人の足にはかせた靴を、自分がもう一度はくというのは、奇妙な体験でした。
しかし、それも彼女としては、私たちが彼女に定めたのと同じルールで、私にも行動するように
求めているだけなのです。 公平な行為でした。
ベスが、透明なガラスの牛乳ビンにいれた水を持って、ゆっくりと戻ってきました。
彼女は、私の家の二メートル以内の範囲では、絶対に走りません。
この点は、妻が厳しくしつけていました。
もし、彼女がつまずいて、私の家に倒れこんできたら……。 考えるだけで、冷や汗が出ます。
彼女は、私の家の屋上のタンクの蓋をあけると、こぼさずに器用に水を入れてくれました。
前にも何回か、頼んだことがあったのです。
「サンキュー」
今度は、私は大きくはっきりとした声で、そう言いました。 ベスは、静かに立ち上がりました。
(前にも言ったように、彼女は私の家の近くでは、けして走りません)
ズシズシと、どこかに行ってしまいました。
これは彼女が、私を子供や人形並みに扱うということとは、一線を画した行動でしょう。 人形……。」
******
ちょうどここまで書いたところで、あの腕時計のアラームが鳴り、スコットは書くことを止めたのだった。
そしてノートを閉じた。 少し回りくどい記述だが、仕方がない。
編集者が朱筆を入れてきてから、もう一度考え直す積もりだっった。
リビングの窓から、戸外の風景を眺めていた。ベージュのカーペットの平原が、薄闇の中を、
どこまでも広がっているように見えていた。そのむこうは、影が立ち篭めて見えなかった。
ともかく、この家が、彼が今の生活と仕事場と定めた場所なのだった。
家の近くの地面に、使えなくなったラップトップのコンピューターが、蓋を閉じられたままで、
床に置き忘れられて蹲っているのを見ることが出来た。
ラップトップ(膝の上)という言葉には、もはや何の意味もない。
平均しても彼の腰ぐらいの高さで、この家のキングサイズのベッドよりも、なお広大な面積があった。
これでも、現在の所は、世界最小なのだと言う。
ルイーズは、部屋の電気を消していた。 彼が、眠れるようにである。
家の窓には、厚いカーテンがあった。
そこから電気の刺激的な光が漏れるのを、神経質なまでに嫌っていた。
星や月光はともかく、蛍光灯の光は午睡から醒めた目にひどく眩しいのだった。
睡眠を取るには寝室に上ってゆき、シルクのベッドのシーツの間に潜り込むだけでよかった。
しかし、室内の豆電球の造る間接照明の明かりを消すと、「家」の玄関ホールからの非常灯の明かり
が、二階の窓から、やわらかくだが差し込んでいるのが、はっきりと分かった。
それは階段を照らし、カーペットの平原を照らし、この家の内部にまで差し込んでくるのだった。
その弱い光量で、室内の人工的な資材や、巨大な老女の指がしでかした、粗雑な室内装飾の不始末
の痕を、数え立てていた。
いくつかの不満があるにもかかわらず、住めば都だった。
このドール・ハウスが自分自身の家になっていることを、しみじみと感じていた。
ボンドが乾くときの、家鳴りのみしみしという音さえ、なにか懐かしかった。 言い換えれば、
それはルイーズとベスが、自分とは全く別の「家」に住んでいるということを、認める感覚だった。
そちらは、異次元の「家」だった。 玄関のドアの敷居を一歩踏み出す。
すると、もう一つの、こことは次元の異なった世界の「家」の中に、客になっているのだった。
そこは、彼の世界とは別種の自然の法則によって支配されている場所だった。
当然のことだが、彼にとっては、この懐かしい家さえ日々に変化していた。
ここに移転してきたとき、家の玄関のドアをくぐるときに、髪がドア枠に触れたのを覚えている。
あれから、まだ一ヵ月も経過していない。
高さの変化は、毎日、縮んでいく過程を、明確に示しているのだった。
自分が子供の頃のサイズに戻っていくような、あの不思議な感覚を、この人形の家は、
ふたたび彼に体験させているのだった。
彼女たちは、(ルイーズと、あの彼の目の前でパンティの前を濡らしていた、あのいやらしい女編集者
のことだ)また、彼のために新しい家を見付けてきてくれるかもしれない。
この家の代役としてだ。 あまりにも大きくなりすぎたら、そちらに引っ越すことになるだろう。
そして。 それから。 また別の家へ。
そして。 また。 次へ。
無限の顕微鏡的な家への移住生活……。
M・C・エッシャーの描くだまし絵の世界に、入り込んでいるようだった。
彼は、異次元の「家」のドアが開く音に、不安なまどろみから目を覚ました。
誰か見知らぬ侵入者が、ついに彼の住む家を見付けだして、誘拐に来たのだという、
悪夢の中では馴染みな恐怖を思い出していた。
*******
マチスンの主題による変奏曲第3番(十八センチメートルの頃に) 前編 (了)