教 訓  (第4章)
アストロゲイター・作
笛地静恵・訳
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 空気が動いていた。
 風が起こっていた。
 帆が膨らんでいた。
 ミロの前髪が靡いていた。
 ミロは、絶望的な気分だった。 首を左右に振っていた。
 彼女の身体が、上空に高く、さらに高く、舞い上がるのを見守っていた。
 それから、女という名前の肉の山が天から落下してくるのだった。
もう何度も目撃している凄まじい光景なのだ。
 それなのに、今回の演技だけは、とてもゆっくりと行なわれているような気がした。
自問自答する時間が、たっぷりとあったから。
「なぜだ? なぜこんなことをする!?」
 体重一万三千トンの少女が、青い水面に激突していた。
 巨大な白い水しぶきが爆発していた。
青空に三十メートル以上の高度まで達していた。
 巨大隕石が衝突したようなものだった。海面が盛り上がっていた。
 衝撃によって発生した大津波が、ヨットの場所に到達するまで、
もうほとんど時間は残されていなかった。
 自分ができることを、なさなければならなかった。ミロは、錨を切り落とした。
帆を強く張った。 三角帆を圧した。
 ボートは、ゆっくりと動きはじめた。
船首を、巨大な津波の方に向けるように回転させていた。急速に来襲していた。
 チャンスは一回しかなかった。
 ほんとうに一回かぎりだった。
もし波の山脈の側面に正確な角度で、船首を切り込ませることができさえすれば……。
 サーフィンと同じ要領だった。
 しかし、彼は、それに失敗した。
 第一の大波は、マストの遥か上の高さから、伸し掛かるように迫って来ていた。
ボートの全長の、四分の一が、第一の波に飲み込まれていた。
 第二のより大きな津波が、頭上に壁のように聳えていた。
帆に掛かっていた風を、完全にさえぎってしまっていた。
 ボートは、前進する力を失ってしまった。
「動け!」
 ミロは、絶叫していた。
「動け!」
 ミロは、さらに絶望的な気分になっていた。
舵輪を激しく回転させていた。 もっと帆に風を孕ませようとしていた。
 状況は絶望的だった。
 かろうじて、もう数度だけ、船体の角度を変えることに、成功していた。
 大津波が船体を持ち上げていた。

 すべての努力の甲斐もなかった。 「ソフィアL号」は、右に傾いていった。
船体は、なんとか急傾斜する水面を滑り下りようとしていた。
 最後の苦闘を演じていた。
「だめだ!」
 ミロが、叫んでいた。
「だめだ!」
 「ソフィアL号」は、側面から水面に叩きつけられていた。
 船体のどこかが裂ける鋭い音がした。
 頭上からマストが倒壊して来た。
ヨットは、船底が上になるように回転していった。
 沈没していた。
 ミロは、水中にいた。
 自身の身体を、ボートの下から脱出させようと苦闘していた。
 しかし、何かが足に絡んでいた。
まるで、大鮹の触手のようなものだった。
 それは、帆を止めるワイヤー・ロープの一本だった。
すでに白い帆は、操縦室の天井部分を覆い隠していった。
 水中のミロの方に、大きな白いエイの身体のようにして覆い被さって来ていた。
 ミロはパニックに陥っていた。
同時に、渾身の力で闘っていた。
 身体に吸い付いてくる帆布を押し退けようとしていた。
なんとか自由の身になるのだ。 ボートの下から逃げ出さなければならなかった。
 頭上を見た。 恐怖とともに悟っていた。
水面までは、あまりにも距離があった。息は、もう尽きかけているのに。
 水面を目掛けて必死で両手と両脚で水をかいていた。
滅茶苦茶に動かしていた。 空が次第に近く大きくなっていった。
 もう少しで、水面に辿り着こうとしていた。
彼の精神は、声もなく絶叫していた。
たぶん、彼の肺も抵抗して、泣き叫んでいるのだろう。
 片方の足首に、何かが絡んでいるのを感じたのだ。
足元を、見下ろした。 一本のロープが、まだ片足に絡んでいた。
 水中に、引きずり込もうとしていた。
「ソフィアL号」の方に向かってだった。
 彼にとっては水深五〇メートルはあるプールの底に、沈没しようとしていた。
物凄い力で、深くさらに深く、引き摺り込もうとしていたのである。
 小さなライフ・ジャケットの浮力だけでは抵抗は不可能だった。
 ミロは、手を延ばしてロープを外そうとしていた。
呼吸が、もう限界に達していた!
 呼吸をしなければならなかった。
 彼は……彼は、こんなところで死んでいく運命だったのか。
 薄れ行く意識で考えていた。
 死ぬんだ、今と……。
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 その時、ゴウッという音と共に、肌色の何か巨大なものがミロに迫ってきた。
 それは、ミロの小さな体をやすやすと捕え、水面へと連れ去った。
