巨女ゲーム 第3章 黒いミュール こみいった内容を考えることは、ライアンには、ますます不可能な状況になっ
ていた。二杯目のワインが、酔いの精霊を、脳細胞に運んできたようだった。
一時間以上が経過していた。ライアンの退屈は、深まってきていた。身体が重
かった。少しだけだが、ワインをきこし召し過ぎたようである。しかし、彼女は
、この道のプロフェッショナルだった。なんとか、ソファから重い腰を上げていた。
洋服ダンスの方に向かって、よろよろと歩いていった。いつもならば、自分が
私生活で使用している下着を、仕事上で着用するということは、絶対にしない主
義だった。しかし、彼女には分かっていた。これが、今の怠惰な精神的状況にあ
る自分を、奮い立たせる最良の方法だということが。
紐のように細い布地しかない、黒いブラとスリップのコンビネーションである。
ほとんどソング(紐下着)のような代物だった。彼女の豊満な肉体に食い込む ように、しっとりと密着してくれていた。
ベルトのついた、赤いシルクのレースのガウンは、長袖と長い裾の下に美しい
下着をかくしてくれていた。足元を見下ろしていた。ワインが寄与してくれたぬ
くもりを、指先までに感じていた。今回の雇い主の意志に反して、踵の太いミュ
ールを履くという決断をしていた。今回、選択したランジェリーに、本当によく
マッチしてくれるデザインであったからである。
厚い黒のゴムの厚底(プラットフォーム)の底には、素敵な10センチの長さ
のヒールがついていた。三本の赤いストラップは、幅の広いものだった。足の甲
と踵を、少しだけ覆い隠しているだけだった。赤いペディキュアを丁寧に塗られ
た爪先に関しては、完全に剥出しの状態になっていた。
ライアンは、地下室のドアに歩いていった。靴の生み出す足音が、本当に官能
的であるということに、気が付いていた。鋭いヒールの鋭い耳を劈くような金属
音ではない。ゴムが接地する時の暗くこもったような音。素足の裏が、ゴムのプ
ラットフォームに吸い付く。水気というのか。粘り気がある。そうか。あれに似
ているのだ。ライアンは、考えていた。物を食べようとする時の、舌打ちするよ
うなぺちゃぺちゃという音。ある種の隠微な快感を得る方法を、想像させてくれ
るのだった。
ゆっくりと。かつ優雅に。室内にゆっくりと歩を進めていった。ステージに上
る三つの段差の手前で、足を止めた。コントロールを眺めた。転送のための異星
の空間とのコンタクトの準備が完了していた。
一秒もかからなかった。ステージに被さる半球形のドームの内側に、彼女が訪
問する予定の惑星の、都市の上空と同じ色の青い空が、再現されていた。白い雲
が流れていた。
沈黙の内に、しかし、突然に都市が目の前に出現していた。ライアンの右足が、
ステージに上がる階段の最初の一段を踏んでいた。 *
都市の市民達は、最初は何が起こっているのか、まったく気が付いていなかった。
いきなり目前の空間に出現した、ステージの周囲の壁に激突して、何台もの 自動車が大破していた。
都市の南側の周辺部にいた、数百人の人間たちは、自分たちが、何かの暗い影
の下になっていることに、気が付いたのである。ほとんどの者が、何が起こった
のかと空を見上げていた。しかし、事情を理解できた者は、ほとんどいなかった。
一秒の四分の一以内の時間で、生の支配する世界から、死神の支配する世界に 移行していたからだ。
それというのも、ライアンが最初の一歩を、都市の中に無造作に踏み出してい
たからである。ミュールが雷鳴のような轟音とともに、都市に打ち下ろされていた。
靴底の下敷きになった人間たちは、速やかに死亡していった。家々も自動車 も同じ運命だった。ただ、すべてが平らに押し潰されていった。
巨人女の途轍もない体重の下になって、圧縮されていった。彼女の歩みの重低
音の雷鳴のような轟きと振動が、メトロポリス全体を貫いて震撼させていった。
人々は、彼らの顔の向きを同じ方角に向けていた。上空を見上げていた。名付け
ようもない、未知の恐怖に襲われていた。
同時に、大地震のような大地の揺れにバランスを失っていた。その場所に倒れ
付していた。しかし、彼らが振り向いて、巨大女性の襲撃を受けているという事
実に気が付く前に、次の地震が都市を震撼させていた。再び数百人の市民たちは、
何が彼らに襲いかかったのかということさえ、知ることはなかった。彼らが見 たのは、ただ暗黒だった。そして、一瞬の内に地下の煉獄のような世界にまで拉
致されて、押し潰されていった。
巨人女の靴の傍にいた数人の生存者たちは、廃墟の中を這いずり回っていた。
しかし、ほとんどの者達は、突然に出現した暗黒の山脈のような黒いゴムの壁の
存在に、目をやることすらなかった。
それというのも、壊れた家の下敷きになっているか、横転した自動車の中から
脱出しようとする行為に、全力を集中していたからである。大きな通りに出てい
た、ごく少数の幸運な者達だけが、揺れ動く大地に足元を掬われて転倒した以外
には、怪我をすることもなく無事だったのである。巨人女と巨人の靴の存在に、
ようやくに気が付いていた。何とか立ち上がろうとしていた。
巨人女は、彼らに自分の身体を鑑賞させるための、わずかな時間を与えてやっ
ていた。一千万都市の景観を、一望に見下ろしていたからである。
通りにいた人間達も、彼女の異様な存在に、あまりにも大きなショックを受け
ていた。プラットフォームのミュールの引き起こした甚大な被害から、不運な被
害者を救出する必要性まで、頭が回っていなかった。
厚いゴムの靴底は、その先端の部分で単に垂直になっているのでなく、地面か
ら上方に湾曲しながら反り返っていた。地面との不必要な抵抗感をなくして、歩
き安さを増している工夫なのだった。
巨大なゴムの黒い物体の真下になっていて、頭上に伸し掛かるような暗黒の空
を見上げている人々は、その底に雲海のような靴底のパターンが、波打っている
ことに気が付いていた。しかし、彼らは恐怖のあまり、正常な判断力を失ってい
た。それが、靴底の滑り止めのために付けられているものであると、理解するこ
ともできなかった。命をかけて、その下から逃げ出すということさえもできなか
った。茫然と、黒い天を見上げるばかりだった。
巨大女は眼下の人間どもに、50パーセントの生き残る確率を与えてやってい
た。右足の方を、次の一歩のために持ち上げていったのである。右のミュールの
近傍にいた人間達は、最初は無傷のままで、その場所に止まることができていた。
しかし、圧縮された都市の残骸が、突風を伴って雨霰と爆撃のように靴底から 地上に降り注いでいた。黒い物体は、まるで巨大な宇宙船のように上昇していっ
た。
しかし、この一連の動作を右足でしながらも、彼女は歩行のためには、必然的
に自分の体重を、左足の爪先部分に移動していく必要があった。左のミュールが、
前方に傾いていった。踵の部分が、空中に上昇していった。爪先の下にいた人 々は、すでに絶望的な状況だった。何人かが、暴風に吹き飛ばされていた。どう
しようもなかった。コロコロ。通りを回転していった。巨人のプラットフォーム
の底に、踏み潰されていった。
ライアンは、ゆっくりと都市の散策を開始していた。その景観を楽しんでいた。
美しい都市だった。雑然としているが、活気に満ちていた。同時に、自分の力 の強さを感じていた。彼女は、足元を注意してさえいなかった。ことの他、ゆっ
くりと歩みを進めていた。しかし、一歩から、次の一歩までに如何に時間をかけ
ていたにせよ、進行方向にいた、ちっぽけな都市の市民にとっては、足跡から十
分に距離を取った場所まで逃げることなど、到底できない速度を持っていた。
数百人の人間たちが、家の中にいた者も、車内にいた者も、あるいは単に通り
を逃げ惑っていた者も、なんら区別されることなく、無差別に踏み潰されていっ
た。ライアンの靴が、下降してくる真下の光が遮られた薄暗い場所で、家々が何
の抵抗もなく破壊されていく光景を、目撃しなければならなかった。
多くの者達が、靴底に、一個がトラックぐらいのサイズのある長方形の物体を
目撃していた。それ一個だけで、最初に一件の家や、一台の車や、ついには、何
人もの人間達を、大地に接触した瞬間に破壊していく破壊力を持っていた。
彼らも何人かは、ゴム底の滑り止めではないかと考えてはいた。しかし、暗黒
の中に閉じこめられていた。巨大な足の下になっていた。雷鳴のような轟音に、
耳が聞こえなくなっていた。恐怖を覚える衝撃を、全身に感じていた。物体が地
面に接触する前に、圧倒的な力で進行する黒いゴムの物体によって、彼らの肉体
を破壊されていた。無数の滑り止めの溝を刻んだライアンのミュールの靴底のデ
ザインを、明白に見定めることのできた人間は、ほとんどいなかった。
一秒間の十分の一の時間で、まだ地面に、さらに深く沈み込んでいる靴の底の
下で、生き残っている人間はひとりもいなくなっていた。
すべてが、この巨人女の膨大な体重の下で、圧縮されていったのだった。
*
「巨女ゲーム」のプレイヤーは、暴力的な衝撃のたびに、魚のように跳ね上が
る車内にいた。通りの人々は、両手と両足をついて這いつくばっていた。若い娼
婦の、ゆったりとした歩調による散策の様子が、南の地平線の方角に眺められた。
彼に立ち上がるために必要なゆとりを、与えてはくれなかったのである。 何回かの振動が、摩天楼の窓を、一枚、また一枚と割っていった。数秒後に、
割れたガラスの破片が、ビルの真下の通りにいた人間達の体を、引き裂いてい った。混乱した群衆には、間に合うように逃げる余裕など、なかったのである。
「巨女ゲーム」のプレイヤーは、まえよりも混乱を深めていた。巨人女を見て
いた。ライアンの美しい顔であるとは、認識していた。しかし、ドレスについて
は、彼の指示とは、あまりにも異なっていた。命の危険を、さらに感じていた。
それというのも、彼の選んだのは、もっと先端の細くて鋭い、スパイク型のハ
イヒールだった。こちらの方が、靴底の面積が小さいだけ、その下で生き延びる
チャンスがあると思えた。たとえば、土踏まずのアーチの部分に隙間があった。
しかし、あのようなプラットフォームの靴では、がっしりとした踵と、プラット
フォームの間にあるアーチに、救いを求めることはできなかった。低いアーチは、
大地に激突した瞬間に、彼女の体重によって、深く土に沈み込んでしまうからである。 巨人の娼婦は、都市の中心部に方向を転換していた。血のように赤い唇を舌な
めずりしていた。恐怖のあまり、狂気に陥りそうだった。見上げる彼女の酔った
ように放心した顔は、明らかに性的な欲望だけを満たしたくて、飢えている女が
持つ表情を示していたのだった。
*
彼女は、ゆっくりとガウンの腰の周りに締めたベルトをほどいていった。
シルクの生地が、真紅の滝のように巨体を滑落していた。地面に着地した。何
トンもの重量のある、純粋なシルクだった。真紅の布は、町並みに覆い被さって
いった。建物に激突していた。下になった家々は、ばらばらに砕けていった。人
間たちも、その下敷きになってつぶされていった。
しかし、都市の他の場所にいた住民たちの視線は、その凄惨な光景よりも、肉
欲という乳に満たされて、美しい刺繍に飾られた二つの巨大な乳房に吸い寄せら
れていた。しかし、数秒後には、彼ら全員が息を飲んでいた。ライアンのほとん
ど隠されていない、飢えた股間の裂け目が、明らかに濡れていたからである。
彼らの目は、二つの塔のように聳えている両脚を下り、怪物のようなミュール
の装甲を持った、究極の威力を秘めた兵器のような足に、注目させられていた。
*
ライアンは、じっとその場所に直立していた。絶望的な状況の獲物達に、その
肉体の、栄光に輝くような壮大な美を鑑賞する、十分な時間を与えてやっていた
のである。それから、ついに、新たな決意に満ちた、歩みを進めていった。破滅
を運命づけられた、メトロポリスの中心部にむかっていた。この一歩は、すべて
の恐怖にうち震えていた魂に、終末の日が到来したことを明瞭に告知していた。
摩天楼が肩を林立する大都市でも、大きめの方のビル街でさえ、あの巨人の履
いているミュールの威力の前では、ひとたまりもないだろう。巨人族の娼婦は、
それらを冷酷に踏み潰していった。足跡には、圧縮した物質に変換された建築物
の、平らな残骸しか残されてはいなかった。プラットフォームのミュールの先端
部分でさえ、彼らにとっては75メートルの高さにまで聳える、暗黒のゴムの壁
だった。
この地域では、最大の摩天楼の屋上だけが、その高さに届いていた。240メ
ートルのハイヒールの高さに比肩しえたのは、わずかに三つのビルだけだったの
である。あれらの誇り高い英知の所産であるはずの、人工の精華である構築物で
さえ、巨人の靴と巨大な素足と強大な爪先の力の前には、あまりにも壊れやすい
存在にすぎなかった。
ライアンのもう片方の足が、大地から上昇していった。前方に動きだしていた。
周囲に暴風を起こしながら、堂々と進軍していった。今度のは、本当の一歩だ った。今までの物憂げな散策や、遊び半分に足を滑らせているだけの行為とは異
なる。攻撃的な意図のあるものだった。明瞭な侵略の意図を示していた。数えき
れないほどのビルディングが、塵に帰った。都市の一区画から一区画へと、爪先
の下の黒いゴムの壁面の下敷きになっていった。
突然に、動きが停止していた。彼女の体重は、片足だけに乗せられていた。恐
怖を伴う振動と轟音を発しながら、ミュールは自然に大地に沈み込んでいった。
途方も無く巨大な重量の圧迫によって、瓦礫も地盤も同様に破壊され圧縮されて
沈下していった。
彼女は踵を上げた姿勢で、ゆっくりとしゃがみこんでいった。その姿勢によっ
て、さらに多くの体重が、爪先部分に集中していった。限定された地域に乗せら
れていった。さらに数秒間というもの、ミュールの底の刻印のついた地盤沈下の
深度は、地下15メートルの地層にまでも達していった。
「こんにちは、ちっぽけなわたしの犠牲さん!わたしは、今夜はとってもセクシ
ーな気分なのよ。うふふ。たぶん、ワインを、ちょっぴり飲みすぎたのね。酔い
が、頭に回ってしまったせいだと思うのよ。それでね。この都市には、いつもよ
りも、ちょっとばかり濃厚なサービスを期待しているの。そう決めたの。ほとん
どの大人の殿方には、もう理解してもらっていると思うけど……。何のサービス
かっていうとね……。はっきり言うとオ……、セックスしたいの……。だって、
あなたたちの摩天楼って、とっても素敵な太さと長さをしているんですもの。あ
たしに、ぴったりのサイズだと思うのよ。うふふ。でも、そうかといって、あな
たたちは、その可愛い摩天楼の中から、慌てて逃げる必要はないのよ。あなたが
たの町の他の部分で、濡れるような前戯を、たっぷりと楽しむつもりでいるから
……」
これらの言葉は、全市街に雷鳴のように轟き渡っていた。ライアンは、市内で
もっとも大きな摩天楼の周囲の地面に、親指と人差し指で土を集めるようにして
いった。わずか二秒間で、すべての出入口を埋め尽くしていた。穿り返された土
や、破壊されたコンクリートや、瓦礫の山で完全に塞がれていた。小さい子供の
ように微笑しながら彼女は、この無邪気なような土いじりを、残りの他の六つの
摩天楼でも実行していった。強大な太腿の力を借りる必要もなかった。
再び立ち上がっていた。ライアンは、もう一歩を進んでいった。プロフェッシ
ョナルの彼女が、餌食とする人間どもに対して、何の行動計画もなしに動きだす
ということは、ほとんどなかった。しかし、どちらにしても、結果は同じような
ものだった。
履き古した太い木製のヒールのついた、黒いゴムのプラットフォームのミュー
ルを使用していた。他に多種多様な靴を、コレクションしているにもかかわらず、
自然にこれを選んでいた。人間どもを、その餌食にして始末していった。紐の ついたサンダルの、黒い弾力性のあるゴムのプラットフォームで、踏み潰してい
った。貧しさのせいで、若くして亡くなった母が、ライアンが少女から女になっ
た季節を記念して、初めて買ってくれた靴が、この種のデザインだったのである。
ライアンの足が、その場所を立ち去った後で、靴の種類による唯一の相違と言
えば、その足跡の刻印の形状が、異なるというだけのことだった。木製のミュー
ルと固いゴムの靴底は、柔らかい紐のサンダルよりも、さらに深く地面に沈み込
んでいった。先端の尖らしたヒールのついた靴の場合は、平たい底の靴よりも、
台地により深い穴を穿った。しかし、彼女が靴を履いているにしろ、履いていな
いにしろ、その足跡に残された物のすべての物体は平らになっていた。人間も死
に絶えていた。
今日も、また同じように、徹底的な殺戮行為を繰り返すのだ。彼女が、「巨女
ゲーム」の娼婦という仕事を愛するのには、理由があった。人類の半分である男
性。それが作り出した文明の成果である都市。それを、ぺちゃんこになり抹殺し
ていくのである。痕跡のすべてが、彼女の力の証明書だった。文明が崩壊した後
では、惑星は、その本来の美しい表面の色を見せていた。後は、植物が、変化を
完璧なものにしてくれる。自然の回復には、いつでも少々の時間が必要なだけだ
った。犠牲となる人間どもは、踏み潰される最期の瞬間に、ライアンの自然の力
の象徴のような圧倒的な女神の力に、畏敬と尊敬の念を覚えていることだろう。
彼女には、仕事を始める前に、自分の性器を指で慰めるという習慣があった。
しかし、今日は、その意志力のすべてを、少なくとも最初の一時間だけは、自分
の気持ちを平静に保つために、使わなければならなかったのだ。
けれども、ちょっとだけでも気晴らしの時間が、必要だった。本番の仕事の前
の、遊び時間のようなものだった。前戯の時間である。摩天楼街から、それほど
に遠くない場所に、彼女はその素晴らしい肉体を、腰から順番に地面に下ろして
いった。その場所に、しゃがみこんでいった。前に延ばした両手で、上半身の体
重を支えるようにしていた。前の方に、下腹部から先に、地面にゆっくりと胴体
をついていった。両肘をついていた。顎を両手で支えていた。都市を至近距離か
ら観察していた。
*
彼は焦っていた。ほとんどパニック状態だった。自動車が、逃げ惑う大群衆の
大波に取り囲まれてしまったのである。海中の孤島のような状況に陥っていた。
最初の数秒間というものは、ほとんど途方にくれてしまっていた。彼は、彼女が
わざわざ印を付けてくれた、あの摩天楼まで辿り着かなければならないのだ。
自分のファンタジーが、とうとう現実になるチャンスを、女神様に与えられた
のである。摩天楼の方面に向かう道路が、いきなり人波で閉鎖されてしまったの
には、焦っていた。頭頂部を、車の柔らかいクッションの入った天井に、しかし
、したたかに激突させていた。目から火花が散った。肩にシートベルトが食い込
んでいた。切断しそうな痛みが肉にあった。
大地震が、何度も彼の身体を揺すぶっていた。両足は、闇雲にベダルを何度も
何度も、踏み込んでいた。エンジンが、激しく咳き込むような音を立ててから、
回転を止めていた。ガソリンを吸い込みすぎて、エンストしてしまったのだった。
ブレーキを踏み込んでいた。ハンドルにしがみ付いていた。衝撃に耐えていた。 自動車は、横滑りしながらも、何かに激突していた。静止していた。 フロント・ガラスの向こうに見えるものは、彼女の靴のプラットフォームの、
視野の果てまで天に聳えるような黒い崖だった。何の手加減もないスピードで、
湾曲した黒い壁が下降して来たのだった。強大な靴は、一瞬だけ、その場所に静
止していた。それから、回転を開始した。すでに破壊されて、混乱の極みにある
ビル街を、大きな瓦礫を単位として、粉々に分割していった。次の瞬間には、前
進する靴底によって、その下ですべての物質が、平らに磨り潰されていったので
ある。
彼は、あまりにも感覚が麻痺していた。命を哀れんで、絶望的な恐怖のために
悼んで、泣き叫ぶこともできなかった。大音響のせいで、両耳が痺れていた。鼓
膜の中に、自分の鼓動と呼吸の音が篭もっているように聞こえていた。ほとんど
騒音も鼓膜では聞こえなくなっていた。脳細胞が直接に、振動を音に翻訳してく
れているような気がした。
彼の車も、前に後にと、波の上のように揺すぶられていた。裂目の入った道路
を、なんとか大きな残骸を乗り越えつつ、進行していった。やがて、彼の精神は、
自動車が深い裂け目の内部に滑り落ちて、そこに填まり込んでしまったのだと いうことを、ゆっくりと認識していた。災害現場に巻き込まれたのだ。
同時に、巨大な靴が上昇していった跡に、空気が暴風のような勢いで流れこん
できていた。偶然にも彼の自動車を、割れ目から持ち上げていた。吹き飛ばして
いった。奇跡的にも、まだそれほどの致命的な被害を受けていない道路に、タイ
ヤから無事に着地することができていた。
前方の道路には、何の人影もなかった。足跡の反対側の端では、深い穴に滑り
落ちていく、何台もの自動車と無数の人間たちがいた。木製のヒールが大地に穿
った深い穴だった。生まれたばかりの若い谷間だった。穴の前で、間に合うよう
に停止できなかった者たちだった。他の者達も、自動車が次々と玉突き衝突をし
て、穴に転落していく大混乱の中で、背後から押されるようにして落下していか
ざるを得ない状態だった。
彼は、アクセルを踏み込んでいた。エンジンにガソリンを送り込んでいた。咆
哮させていた。次の交差点で左折をすることにした。都市の中央部に向かってい
くはずの次の大通りで、また別の足跡による大陥没が生じていた。さらに三つの
信号のある交差点を、通り過ぎていかなければならなかった。
四つの目の通りは、まだそれほどの被害を受けていないように見えた。瓦礫に
よって、覆い隠されてもいないようだ。しかし、中心部に向かって車を走らせて
いくにつれて、また徐々に、他の自動車や大群衆が逃走していく流れの方向と、
逆走せざるを得ない状況に陥っていった。
数秒後には、彼の車は周囲を難民の群れによって、取り囲まれるような状態に
なってしまった。大地は激しく、上、下していた。左、右にも、ゆさぶられてい
た。車酔いをしたような感覚になっていた。遥か遠くのはずの、あの巨人族の女
の一挙手一投足によって、車ごと空中に何度も跳ねとばされていた。
遠くだって?
いや、いきなりだった。この辺り全体が、暗い影によって覆われていた。見上
げていた。彼女の巨大な片手が、黒雲のように地上に風を巻きおこしながら、通
りの上空を通過していった。重い爆発音を伴う振動があった。それが、ここから
ごく近くの場所に、着陸したことを告げていた。
彼は、さらに視界をクリアーにしようと思った。運転席の脇の泥やゴミで汚れ
てしまった窓のガラスを下げていた。上空を見上げていった。ビル街の上空いっ
ぱいを、黒いレースのブラに包まれた女の乳房が、怪物のように占領していた。
遥か上空だって?
今度も下降する速度が、あまりにも急だった!彼は、ぼんやりと惚けたように
観察する行為をやめることにした。必要なのは、スピードだった。ぐしゃ!……
どすん!……!市民たちは、彼の車の進行方向から、十分に逃げられるような速
度で、移動してはいなかった。彼は何も気にしなかった。車に轢かれるぐらいが、
なんだというのか?どっちみち、みんなが、あの巨大なおっぱいの下敷きにな る運命なのではないだろうか?
三秒後。それ以上の時間は経過していなかった。彼は、また振動と物が壊れる
ような騒音が、急速に接近してくるのを感じていた。自動車は、鳴動する地面に
車輪を持ち上げられていた。片側のタイヤが浮き上がっていた。ハンドルを取ら
れていた。
彼にも彼女の下腹部が、都市の広大な区画を、次々にその下敷きにしていく物
凄い光景を、遥かに展望することができていた。
車の後方を映すミラーに、恐るべきものを目撃していた。黒い球体だった。車
輪の下で大地そのものが、持ち上げられていった。彼の車も自動車事故に巻き込
まれたように、回転していた。巨人の巨乳の壮大な重量のために、大地そのもの
が、巨大隕石が落下したかのように沈下していく。傾斜していくのだった。
金属が引き裂かれる、悲鳴のような音があった。引き裂かれた道路の割れ目の
中に、とうとう彼の車も転落してしまっていた。かろうじて、車内に踏み止まっ
ていた。彼の周囲は、今では耳を聾するような轟音に満ちていた。
大地そのものが、3マイルの巨体の女の、快楽の精華のような美しい起伏に満
ちた肉体に会わせるために、その形を変えようとしているのだった。
コンクリートの道路の裂け目も、彼の車を噛み砕こうとするように変形してい
った。シートベルトを外した。頭部を、両手で庇うようにしていた。変形して開
きにくくなった運転席のドアに、体当たりをしていた。車外に転がりでていた。
頭を下に、両足を上にして、回転していた。転がり落ちたようなものだった。砂
を噛んでいた。絶望的な気分になっていた。
彼裂け目の斜面をよじ登っていった。ほんの数秒後のことだった。彼を乗せて
いた自動車も、割れ目の中で、ばらばらに押し潰されていった。もっとも、足跡
の中の自動車のように、徹底的に平らに押し潰されて、原型も止めていないとい
うのとは、質が違っていたが。しかし、まるで断末魔の生きもののような痙攣と
悲鳴を残して、飲み込まれていった。
彼から15メートルの地点で、黒いレースの生地が、急速に外側に膨張してい
った。巨大なアドバルーンに、空気が入っていくような情景だった。体重を乗せ
られた乳房が、大地に押しつけられて広がっていくのにつれて、生じている自然
な反応だった。危険地帯から、今度は、徒歩による逃亡を再開していた。
*
ライアンは微笑していた。人間たちは彼女の目には、ちっぽけな点のような物
にしか見えなかった。いくつかの点が、なお彼女の身体の近くで生じた大混乱の
中でも、なお生きて動いていたからである。たぶん、他の者達の救出さえ考えて
いるのかもしれない。
いくつもの通りでは、数えきれないほとの点どもが、逃げ惑っていた。何個か
の、他の物よりも大きな点は、おそらく自動車たちなのだろう。徒歩の逃亡者の
間を、何の配慮もなく疾走していた。彼女の右腕は、顎を支えている左手と比較
すれば、なお若干の行動の自由を保障されていた。
爪の先端で、彼女は自動車だろうと思える、いくつかの点に触れてみた。それ
ぞれの車の背後には、膨大な数の難民が、つながるようにして続いていた。それ
もまた、磨り潰していった。彼らにとっては、優に3メートルの厚みがあるだろ
う。半透明の鋼鉄のような爪だった。簡単な作業だった。赤いマニキュアの膜で
さえ、2メートル以上の厚みに換算できた。
彼女は、彼らの命を助けてやるつもりは毛頭なかった。ほとんどの車は、大混
乱の渦中に生じた割れ目に、飲み込まれるようにして消えていった。ライアンは、
この退屈なゲームを、息の一吹きで終わらせるつもりになっていた。唇を丸く して突き出していた。
そして。
「ブーッ!」
3・黒いミュール 了
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