性的表現、暴力的な描写があります。 未成年の方は読まないでください。

トーイ・ゲーム――   巨人からの手紙 第2章

ヘディン・作

笛地静恵・訳

−−−−−−−−−−



メリーは、まだ私と生活している。子どもだったころから、そうしてくれればと願っていた。もちろん、彼女が、自分自身の家庭を築くまでは、という条件付きである。

仕事。ボーイフレンド。結婚。子どもたち。

お決まりの物語である。あなたたちが、今でもしている生活の仕方である。あくまでも、あなたたちだ。私たちではない。

私たちは、もちろん、この家が、唯一の生活の場所である。

内部の物は、ほとんど何も変化していない。メリーと私は、それについて、一度も議論したことはない。これが、最も落ち着くことができる状態なのである。そして、もちろん、誰であっても、家の外の者たちと、本当に議論したことなど、あれから、一度もない。

メリーは、すっかり成長した。若い女性である。もう少女ではない。

ラッキーだったのは、私の靴のほとんどが、彼女の足にも合ったということだ。彼女は、私よりも大柄だからである。その身体に合う衣服は、惑星地球に存在しない。しかし、私の数枚のビキニと、数枚の伸縮性のある下着だけは、かろうじて彼女の身体にフィットしている。

私たちの住宅の存在そのものが、生み出している温暖な気象条件がある。それは、山脈を大陸西岸部に形成している。大胆な軽装での生活を可能とする条件になっている。

私たちは、多くの時間をそうするのではないが、パティオで日光浴を楽しむ。屋外で、トップレスになっていようと、誰に私たちの行動を、咎めることができるだろうか?

私は、彼女にも十六歳になってから、その行動を許可した。何枚かの古い衣服を、成長していく身体に合わせて、仕立て治していく際限のない作業に、ほとほと疲れてしまったのである。

彼女は、もう充分な年齢に達していた。充分に成熟した女性である。肉体的にも、精神的にも、そうである。それに彼女には、強姦魔や不道徳的な行為を怖れる必要は、何もないのだ。彼女の決定に、すべてをゆだねることにした。メリーも感謝してくれた。









 私たちの日々の生活は、きわめてシンプルである。

太陽の光に合わせて起床する。電気のない生活では、そうせざるを得ない。ベッド・ルームに、僅かな灯りを一時間ともすだけでも、何エーカーもの森林資源を焼きつくすことになってしまう。

最初は、洗顔をする。充分な水があれば、である。時には、ひとり分しかないこともある。そういう場合には、もう一人は、手に一杯の水で髪を塗らし、両眼の目やにを洗うことしかできない。時には、それすら飽きて、メリーに水を分けてやることがある。順番は関係ない。

それから、朝食になる。その意味は、缶一杯の水と、おしゃべりということである。私たちには、話すべき話題が、必ずあった。あなたたち人間は、たいへんに忙しい種族である。私たちは、いつもあなたたちの愚かな行動を、話しの種にさせてもらっている。

日曜日には、お茶を頂く。

前日の午後から缶を戸外にセットしておく。メリーは手製で、巨大な太陽熱温水湯沸し機を作りあげた。台所用のアルミフォイルを活用した。私たちが、少しだけ睡眠時間を延ばせば、その間に太陽が、お湯を沸かしておいてくれる。

時折、お代わりを要求したくなる。しかし、それが、あなたたちの茶葉の供給能力を超えていることは、知っている。珈琲も欲しいが、無理なことだろう。一年に、私たちの十杯分を供給するのが、人類には限界である。もし無理を通せば、二か月に一度ぐらいは、珈琲にありつけるかもしれない。しかし、それも、もうとうの昔に、あきらめている。お茶で満足している。

 その後で、今日やることを決める。

多くの場合、私たちは、裏庭で日光浴を楽しむ。パティオの上で肌を焼くか、裏庭の芝生の上に寝転ぶかは、気分次第である。メリーは、芝生の一部を、家庭菜園に改造した。茶葉の栽培をしている。種が家にあったのは幸運だった。一部は自給自足が可能である。

時折は、二人一緒で外出する。あるいは、どちらか一方だけのこともある。あなたたち小さな人たちを訪問する。他に家事があるわけでもない。

午後には、メリーは、自分の部屋で読書をして時間を過ごす。書棚二つ分の蔵書がある。小説よりも、主に学校の教科書のたぐいである。私の学生時代の物である。いくらかは、父親の物も、混じっている。彼女は巨人であってもいいが、総身に知恵が回りかねるとは、思われたくないという。私には、娘の知的な向上心が嬉しい。多くの人間達も、そう感じているだろう。

私について言えば、古い雑誌から、昔の地球の風景写真を眺めているのが、好きだ。時折、小さな世界の中で、昔の光景を忘れてしまうことがある。特に山々である。私の世界のそれは、そのほとんどが、膝ぐらいまでである。いいとも、それらは、今でも山脈である。眺めていて美しい光景だ。しかし、印象が薄い。昔日の威容がない。どうしようもないことだ。

 少なくとも、海で泳ぐことはできる。いつもモンテレー湾を訪問する習慣である。そんなに遠くまで水中を歩かなくても、水泳が出来る深度に達する。サンセットステートビーチは、腰を下して座るのに、適当な場所である。 けれども、ワトソンビルは、ここ数年、その魅力を薄めている。そこは今では、あまりにも何度も使ったので、平坦になってしまった。

しかし、地球には楽しむべき場所が、まだ残っている。私たちは泳ぎ着いた岸辺で、いつも歓待を受ける。都市や、ビーチや、何かに、驚きを覚える。

キングスキャニオンやヨセミテには、あえて足を向けない。自然を荒らしたくないからだ。時折、近くにまで言って、その光景を、ちらりと眺めるだけである。そのために人間達は、依然として、そこを訪れているらしい。メリーは、新しい集落を見つけた。いつも行く場所から、ほんの一歩か、二歩の距離である。

 午後になると翌日の準備を始める。水を汲む。茶の缶をセットする。すでに話した通りである。あの手の作業である。

太陽が地平線に沈む前には、ベッドに入る準備をする。おやすみのキスを交わし、自分の部屋に戻る。

これが、日々の生活の概要である。

それに、多くの思いがけない事態が、付け加わるのである。







最も一般的なのは、小さな訪問者である。私には、彼らが一体何を求めているのか分からない。

時折、彼らが単に、私たちのファンではないかと、思うこともある。あるいは、フリークス。変質者。単純にのぞき屋。いつも、私たちは、彼らを狩ろうとしているのではない。もし見つけたら、爪先を動かす。あるいは、一歩を進める。彼の人生を終らせる。そんなところである。

私たちにとっては、彼らは小人か小さな人か、そんな風に呼ばれている存在の一員である。男性か女性かの区別もつかない。

時折、ラッキーな者がいる。私が、新たな赤い染みを床に生み出すためだけに、筋肉を使いたくないという場合である。

 しかし、彼らの多くは、私たちに気が付かれることもなく、その命を終る。家の周囲を歩き回っていても、視線を感じることさえできない。屋外の解放された世界では、何らかの兆候を見つけることもできない。

危険を悟って走り出した時には、もう一巻の終わりである。キッチンに入って行くと、床の上に赤い染みを見つけることがある。掃除しても、出る時には、新しく増えていることもある。あるいはパティオにもどって、タオルに身を横たえるときに、素足の裏にメリーが、新しい赤い染みを見つけることもある。

何名かは、もしかすると、私たちのパティオのタオルに、忍びこむことに、成功しているのかもしれない。彼らは、自然の生み出した、本当にフリークスと呼びたい連中である。誰が、お尻に押しつぶされる危険を冒してまでも、単に至近距離から覗き見をしたいと望むであろうか?

彼らを私たちの足の下で、非業の死をとげる連中と比較することは、本来はできないことなのかもしれない。しかし、パティオに彼らが出没しない日は、むしろ少ない。自分の身体のどこかに、押し潰された彼らの身体の残骸を、見出すことが、たびたびある。

更に多くの人数が、裏庭や家の前の芝生の内部には、隠れ潜んでいる。しかし、彼らは痕跡を残すことなく、どこかに消え失せてしまう。柔らかい地面と草の中で踏み潰してしまい、いっさいが消滅しているだけのことかもしれない。

私は、彼らがたくさん隠れ潜んでいることは知っている。メリーが気晴らしにレンズを持ちだして、辺りを散策することがあるからだ。彼女には、彼らを扱うそれなりの方法がある。それについては、後で述べよう。







 もちろん、一日の生活の中では、他にも、さらに多くのことがある。

私は、これを書き出す前にも、メリーと議論した。しかし、彼女は、それは普通のことに過ぎないと主張した。誰もが知っていることを、なぜあえて、もう一度、文字にして記さなければならないのか?理由がわからないと主張した。私たちのことを、一度も見たことがない人でさえも、承知の事実ではないか?

 あなたは、私が自分たちの食料について、何も話さないでいることに、気が付かれていると思う。あなたは、私たちが、食べることを全く必要としないとは、考えてもいないかもしれない。しかし、有り難い事には、そうなのである。

私達は、水を飲む必要があるし、その他の生理的な内臓の機能についても、正常に活動している。そう、私たちは、水を飲む。だから、それを排泄する必要がある。

 今では、私たちは、家の中に下水を貯蔵していない。排水施設もない。近くの町々が、それについて感謝してくれているかどうかは知らない。

けれども、その方法の選択は、自分たちが、巨人としての生活を開始した二日目には、すでになされていた。それを、この状況が要求してくる、すべての他の自然に即した生き方と同様に、受け入れたのである。

 自然の排水施設と言えば、私たちの地域でいえば、キングス川である。私たちは、その場所を特定した。家から、それほどに離れていない場所にある河である。サンガーに定めた。

町は家の敷地から、以前にあった道路から判断すると、脇に30フィート(約9m)ほどそれた所にある。キングス川は、都市と私たちの家の敷地の間を流れている。

その場所を選択したときには、なお他の候補地もあった。この土地を選定した後でも、私は、なおリドリーにするべきだったかと、迷っていた。こちらは、家からいくらか遠い。しかし、私たちが、日常的に、いつも利用する道沿いにあった。

けれども、サンガー には、その外縁部に足を下すのに適当な地形があった。川岸に私たちがしゃがみこんだときに、足の踏み場を作りやすい場所だったのである。

 それで、ここが、私たちの小用をする場所となった。毎日、欠かすことはない。自然な反応である。トイレットを必要としないで、生きられる人がいれば、教えて欲しいところだ。

 もちろん、一度に500000トンの小水が放出されるというのは、人類の尺度からして見れば、驚天動地の一大イヴェントである。それも、三十秒ほどしかかからない。

メリーが、その場所を利用した最初の一人となった。私がその日の後で、そこを使用した。私は、彼女が、この惑星の基準からすれば、まったく一個の湖水を、新たに創造したことがわかった。

当時を振り返れば、私が同じ場所を使用したことで、娘が不快に感じるかもしれないことを心配した。そのために、メリーよりも、わずかに上流の地点を選んだ。そこに、しゃがみこんだ。

そして、彼女と全く同じ変化を、大地に刻印してしまった。おしっこは河の左右に溢れながら、地面の柔らかい部分を、すっかり洗い流してしまった。

メリーよりも、少しだけ北の位置に座り込んでいたのだが、その飛沫の幾滴かが、サンガーを直撃した。もちろん、小水は、川岸から溢れた。都市に洪水となって来襲した。 

今日の一回だけで、その場所の人口を激減させたことを悟った。

毎日、都市を洪水が襲ったとする。いくつかの地域は、無人の地帯となる。

一方では、私たちは、決して都市の内部に、足を踏み入れることはしない。川岸のある周縁部を除いて。しかし、そこもまた頻繁に、洪水が襲う。

数年間の間に、私たちは、そこにきわめて大きな湖水を創造してしまった。しかし、私たち二人は、同じ場所を使用することに、同意した。

私たちは、そこをサンガーから、少しだけ南西部に移動した場所に、設定したのである。都市は、以前として洪水の襲来を受けてはいる。大量の水が押し寄せる。私たちが体内の水分を排出するときには、川から大波が溢れて流れるからである。

しかし、少なくとも、都市の景観そのものは、湖水の内部に沈み込むことなく、以前として存在している。世界の多くの沿岸部の都市が、私たちの一度きりの行為で水没したのとは、状況が異なっているのだ。

初期の日々には、私たちは、そのおしっこが大地に与える甚大な影響について、本当には分かっていなかったのだ。私たちが、それを察知するまでには、時間がかかったことを告白しておきたい。

私たちは、単純に、それまでに飲んだ分の水を川の流れに、放水して返しているだけだと考えていたのである。しかし、もちろん、その量を一日に、一分の半分の間に排水しているというのは、自然な水の循環とは性質が異なるのである。

少なくとも、一日に二回、私たちのおしっこは、洪水となって川を流れ下って行く。ピッツバーグを通り セイサン湾に注がれていく。たとえサンフランシスコ湾でさえ私達の匂いがするだろうという話を、メリーから耳にしたことがある。

 たぶんあなたは、私たちが川をトイレットとした活用した時から、その可能性を推察しておくべきだったと、糾弾するかもしれない。しかし、私があえて主張したいのは、それも、当然ではないかということなのである。事前に考慮したか、しなかったかということに過ぎない。

私たちも、生理現象のためどこかに排水しなければならない。それでも人々は、私たちの小水が、いくつもの都市を水没させたと、非難する。後には臭のする泥の堆積しか残っていないと。

私が言いたいのは、もしも川という選択肢を取らなければ、最初にサンガーを選択したということである。リドリーが二番目であり、フレスノが三番目になったということである。それで、あなたが、今よりも快適な生活がおくれたはずだと主張できるだろうか?

私は、あなたたち全員が、幸運であったと主張したいのである。私たちは、この点を最初から合意していたのであり、変化をある程度は察知してからも、この方法を変えるつもりはなかったということである。

誓ってもいいが、散歩の途中、フレスノで用を足そうとするのを、我慢したことが何度もある。もしそうしたとしたら、すべてのビルディングが、地表から洗い流されて、何エーカーもの面積の土地が、水没していただろう。

さて、これで充分な説明ではないか。

私たちが、一度も食事の要求を覚えていないという事実に、感謝してもらいたい。ここで異なるスケールの相違をめぐる根本的な問題に、話題を移行していこうと思う。







 ほとんど場合、メリーも私も、素敵な時間を過ごしている。私たちは、巨人になってしまったが、なおもその根底に、人間として感覚を否定することなく持っている、そう自負している。

その意味は、私たちが、特別な幸福感を覚える時というのは、人間であった時と一貫して、同じであるということだ。いたずらな気分になっているときもあるし、穏やかで優しいムードになっているときも、あるということである。

 たとえば、私たちが、散歩に行きたいという感情を抱いたとする。その時、私たちは、何か今までとは違うものを、見たり聞いたりしたいという欲求を、心に抱いている。

一人の女が、毎日、同じ家の壁だけを眺めて、生きていけるはずもない。それで、私たちも、おしゃれをして外出する。

私たちは車を使いたい時もある。それを置いて行きたいという時もある。この気持は、誰でも理解できる物であると思う。

外出する場合には、たとえば、ぶらぶらしながら新しい都市を見たいという欲求がある。もちろん、大きな都市であろうと、一か所だけでは、ぶらぶら歩きのために、十分な面積はない。

フレスノにしても、縦横に4マイル×6マイルの面積をカヴァーしてはいるけれども、これは、ベッド・ルームの広さと、ほぼ同じである。それで、私たちは、ただあちらこちらを歩くという目的だけを主にして、出歩くことになる。

二人合わせると2マイル(約3200m)の身長の背丈の女たちが、都市を訪問するということは、もちろん、そこの市民たちにとっても、一大イヴェントとなる行事だ。

すべての人間たちが、直立して私たちを出迎える。ときどき、彼らがごく自然に、私たちを歓迎する状況に出会うのである。彼らは他の人々を足の下にしていく。

私たちは、彼らが通りに溢れるのを見る。誰もが、他の者たちよりも、上になろうとしている。地面に顔を下げていくと、私たちは、彼らが互いを踏みつけているのを、見ることができる気がする。

あえて公言しておかなければならない。

私は、互いの上に乗るという野蛮な行為を推奨したことは、一度もない。

もちろん、靴底の下に、数千人を一度に踏み潰したとしても、何も感じることはない。そう。家々は、壊れるときに、わずかな刺激を与えてはくれる。もしも素足であれば、自動車を感じることはできるかもしれない。しかし、散歩の際には、たいていハイヒールのサンダルを履いている。それなりにオシャレを楽しんでいるのだ。

 メリーの方が、私よりも、いつもリラックスした格好をしている。娘は、ビキニを着ていることもあるけれども、多くの場合は、野生のままの姿をしている。

そう彼女は、履物を除いて全裸である。特にフリップフラップのプラットホームの物を好んで着用する。同様にして、ストラップのついたハイヒールのミュールを選ぶこともある。

メリーが素肌を見せつけようとするときには、ある種のプレイを楽しむことにしている場合である。

娘は、私とは反対側から都市に侵入していく。同時に反対の方向から群衆たちを駆り立てていく。追跡の業をともに楽しんでいる。ゆっくりと動きながら、私たちは、本体から外れた者たちを、踏み潰していく。

自然な選択として、私たちは、弱くて転倒した者たちから、始末していくことになる。建物の破壊の楽しみが、これに加わる。私たちは、単純にそれらを避けて、都市を通過していくことができない。

 私の足のサイズは9号である。サンダルの横幅が、300フィート(約90m)ある。靴の縦の長さは700フィート(210m)。ストラップ付きということになれば、足の面積は、さらに大きくなる。

足の肉球の部分の直径だけでも、体重を乗せて膨らんでいる状況下では、直径は容易に30フィート(約9m)に達する。通りの幅は、足がフィットするには、あまりにも狭い。大通りでさえ、親指を入れることができるかどうかである。しかし、もちろん、そんなことは気にしない。

私の足が、道の両脇のビルディングを抹消するのに任せている。それだけだ。ゆっくりと、獲物を取る猫の足取りで、進んでいく。

時折、建物を間にして、サンダルの横幅の分だけ二本の道路を同時に、下敷きにしている。

ヒールは高さが340フィート(約102m)はある。大虐殺の現場を貫通して真下の地面にまで到達する。

私は細いヒールの靴を特に好んでいる。先端部は、縦横15フィート(約4.5m)しかない。この都市には、ヒールの高さに達する高層ビルも、ほとんど存在していない。

ある時には、あえて、それらの一つに、ヒールを突き刺す。ヒールに上から下まで貫通される。見るのに楽しい光景だ。

多くの場合、天井部部分の強度は、すぐに靴の重量に屈服する。踵が貫通していく。基底部分まで、達する。その過程で、建物の強度が、重圧に耐えきれずに、裂けて崩壊していく。

固い物もある。その場合は、内部から圧力で一挙に爆発する。その光景を目撃できる。

踵に体重を乗せて、基底部まで一気に貫き通そうとする。一階分ごとに、ヒールが圧力によって、高層ビルの内部に深く侵入する。そのたびに、ヒールの部分は、高層ビル内部の、構造材があったはずの位置を占領しては、下降していく。

この場合、建物の最後は単純である。二つに裂けてしまう。

瓦礫が、雨霰と地面に落下する。

けれども、メリーのやり方は、この遊びに関しては、私よりも遥かに単純である。娘は、お気に入りのフリップ・フロップを使って、単純に次から次へと踏んで、潰していく。それだけである。建物、人々、すべてが、彼女の足の下に踏まれていく。

彼女は、建物を蹴って倒すということもしない。そんなことには、時間を使わない。そうする代わりに、進路にあるすべてを、平らに踏み潰していく。娘が通った後には、何も残っていない。徹底している。

 パニックに襲われた群衆が、私たちの眼前で合流する。メリーはそこに横たわる。いつも下腹からだ。娘は、いつもいくつかの特に美しい建物を、そのおっぱいの下敷きにして大地に埋葬することを好む。

圧倒的な乳房の間に挟み込んで、左右から圧迫して押し潰す。その行為も良くする。それらが壊れていく光景を鑑賞して、二人で楽しい時間を過ごす。

それから、娘が群衆の前に、その美しい顔を向ける。それが最期の時である。私が群衆の中央部に踏み込んでいく。そこでは、小さな人たちの人口密度が、もっとも高くなっている場所である。

もちろん、誰もが一インチの十四分の一の大きさ(約1.7ミリ)しかない。しかし、多数の人間で織られた厚いカーペットの感触には、その振り上げる両腕さえ感じられる濃厚さがあるのだ。







いつも、私たちは、100000人の群衆に迎えられる。もっと大人数のこともある。都市の大きさによって変動する。

私たちは、彼らを大きな広場に集める。

メリーがそこで一世一代のショーを繰り広げる。私が片足を、1万人の上に下ろす。1万人を越えることもある。思い出すと、そのときには5万人を超えていた。

例によって、二つの大群衆が、合体した勢いのままに、もみ合っていた。互いの上に乗り上げていた。私たちには、彼らの叫び声が、ユニゾンとなって聞こえている。

彼らは、足が上空から下降してくるのに、その場所から動くこともできない。これをするときには、群衆の人口密度が、より高い部分を狙う。いつも、それによって、片手一杯分の小人たちを、一挙に踏み潰す。

それから、遂に足を下す。ゆっくりと。だが、遅すぎず。

彼らを踏んでいく。

それは、言葉で表現することができない体験だ。

彼らの抵抗を感じる。生存のために戦っている。しかし、あまりにも弱い。弱すぎる。抗うことはできない。重量を受け止めることはできない。1秒の半分もかからない。そのうちに滑る感覚がある。彼らが潰れている。みんな一緒に。数千の肉体が圧縮される。弾け飛ぶ。死んでいく。靴が前方にわずかに滑る。それだけで、数百人が巻き添えになる。細い血の流れが、靴の下から無数に流れ出る。津波となって、道路に溢れだしていく。

その下にある、どんな空洞にも浸入していく。下水施設であることもあれば、地下鉄のトンネルであることもある。幸運な者たちは、単に押し潰された者たちの、赤い血と肉と骨の流れに押し流されていく。それだけで済む。最後に足が、血の赤い帯を残して撤退する。

人数の減少した群衆が残る。しかし、足は、もう一本ある。いつもは、数歩で済む。残りはメリーに委ねる。娘は、掃除が得意である。彼女の12号という巨大なサイズのフリップ・フロップは、残りの群衆のすべての面倒を、一度にみることができる。

もし娘が、密集した群衆に一歩を踏み出せば、100000人を一度に、その靴の下に処理できるだろう。その方に賭ける。

そして、娘は悠然と次に進む。

 いつもそうして進んでいく。

もちろん、都市があろうとなかろうと、あなたたちの作った道という大地の細い線に沿って迂回したりはしない。最短距離で、まっすぐに進んでいく。

もしも私たちの進路に都市の本体があれば、よりたくさんの建物が壊れる。郊外を通っていれば、被害は少なくて済む。それだけの相違だ。

小さな家々は、あまりにも簡単に始末されてしまう。あまりにも簡単に潰れてしまう。楽しめない。私たちは、その気になれば、農園一個分を、体重を乗せた自然な一歩で、踏み潰していける。

帰宅する道筋は、たいてい退屈なぶらぶら散歩となる。けれども、私たちは、このときも楽しんでいる。その時間を無駄にしているとは思えない。

しかし、もちろん、この行為を、そんなにしばしばできるわけではない。結局のところ、あなたたち小さな人たちにも、種族を再生産し、街を再建する時間は、十分に与えられなければならない。



 
第2章 了





目次に行く 第3章を読む