完全なる人間 (第2章)
機械仕掛けの神・作
笛地静恵・訳
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午前三時だった。
唯一の光は、時計の文字盤の赤い文字からくるものだった。
光は、眠れるジュリーの顔の上で戯れていた。 穏やかで安らかな寝顔だった。
男は、彼女の顔を見上げた。 あまりにも長い間、感じたことのなかった切ない感情を覚えた。
彼女は、美しかった。 しかし、そこにはそれ以上のものがあった。
たった一度の、コンピュータのエラーによって失ったすべてのものを、それは思い出させた。
機械の唯一の誤動作が、もたらした結果だった。
明日になれば、また日々の労働に勤しまなければならないことが、分かっていた。
自分がこの美しい女性の装備する、五感というレーダー装置では、探知できないほどの
卑小な存在であることが、十分に認識されていた。
もし、関係を持とうとしたとする。
しかし、どうすれば良いのか?
どうすれば、実行できるか?
不可能なことだった。 それで、これ以上、そのような枝葉末節の些細な問題で、
自分を苦しませるような真似は止めることにした。
過去はなく、未来もなく、ただ現在だけがあった。
* * *
次の数週間は、速やかに経過していった。
少女たちは、それほどだらしない生活態度の持ち主ではなかった。
しかし、そうであったとしても、何の問題もなかった。 すぐにそれに気が付いていった。
彼のサイズからすれば、たとえサンドイッチから落ちた蟹の身の一かけらであろうと、
大きな祝宴のためのご馳走だった。
若い男どもとの日々よりも、若干軟弱に、そして怠惰になっていった。
それに気が付いてもいた。 以前と比較して、労働に割く時間が次第に少なくなっていった。
このような生活には、元気付ける側面もあった。
今では、アパートメントが倒壊するまで、ここで生活を続けるつもりになっていた。
そして、幸運に恵まれれば、日々は未来へと続いているものなのだ。
誰かが、ここに住んでいてくれるかぎり、何とか生活していけるだろうと思えるようになっていた。
それでも、以前の労働の時間には、真剣になろうと努めていた。
ともあれ。 できる限り。 そうしなければいけない時には、食料と水を集めていった。
まだ建物の壁の内部に住んでいた。 生きるために必要なことは、何でもしていた。
しかし、労働の習慣には、明確な変化が生じていた。
彼女のベッドルームを、出来るかぎり頻繁に訪問するようにしていた。
そして、彼女について多くのことを学んだ。
大学の一年生で、二十歳だった。
彼女は、また……、そう、この点をどう言ったら好いのだろうか。
いわゆる男好きだった。
この点についても、別に何も気にはしなかった。
結局の所、彼女を満足させてやるためには、彼ではまったくの力不足なのだから。
彼女がパーティから、男を部屋に誘い込む。
いつも彼女と同様な性的興奮を感じてもいた。
その男に自分を重ねあわせていた。 巨人の男性に変身していた。
ナイトスタンドの特等席から、眺望の全景を余すところなく楽しんでいた。
それとも、より安全な洋服ダンスの上のこともあった。
二つの肉体が、激しく絡み合っていた。
人生とはこうしたものだと達観していた。
しかし、ある奇妙なアイデアが、自分の内部に芽を出して来たことにも気付いていた。
それは、馬鹿げたものだった。 愚かであるし、危険過ぎた。
この長い年月を、なんとか生き延びて来られたのは、この種の馬鹿げたアイデアに、
まったく耳を貸さなかったためである。
しかし、このアイデアを、心から完全に追い払うことは、出来なかった。
どうして、やってはいけない事があろうか。
そして、ある晩。 何がどうなるか、試してみる決意を固めた。
それは水曜日だった。 彼女の帰宅が、遅くなることが分かっていた。
ナイトスタンドの絶壁の上に立っていた。 神経質になっていた。 命懸けの行為だった。
そう分かっていた。 これには、本当に、人生を掛ける程の価値があるのだろうか?
整理整頓のされていないベッドの白い荒野を、長いこと見渡していた。
彼女の体臭が、ふんわりと立ち上って来た。 ほのかに、かすかに。 それは。
本当にかすかで、彼よりも大きな身体を持つものには、気付くことさえ不可能なぐらいのものだった。
その時、彼は、空中に飛んでいた。 落下していた。
そして、分かった。
これは、あまりにも長い間、一人で生きてきた生活に、自分が疲れてきたことの証拠だった。
* * *
それでもまだ、シーツと毛布が、山並みのようにめくれあがっている場所までは、
優に500メートルはあった。 自分の計画が、成功することを祈った。
また熱心に、今夜は、彼女が男を連込まないようにとも祈った。
八時四十五分、彼女が帰ってきた。 ありがたいことに、一人きりだった。
思わず、武者震いをした。 彼女の姿を、熱っぽい目で見上げていた。
ショートスカートに膝までのソックスをはいていた。 上半身は、純白のブラウスだった。
彼女が、夜の勉強を済ませる迄に、二時間がかかった。
レストルームを使うために、いったん部屋を出た。 そして、戻ってきた。 ドアに鍵をかけた。
静かに服を脱いだ。 半秒間ぐらい、ナイトスタンドの方をちらりと見た。
なにか考えているような表情だった。 彼女は、かすかにうなずいた。
それから、部屋の照明を消した。 部屋は、たちまちまっ暗になった。
すぐに、ナイトスタンドを付けた。 それから、何のためらいもなくベッドに入ってきた。
男は、このすべてを見つめていた。 彼女の素裸にも慣れてきていた。
しかし、それでもなお、驚嘆すべき光景ではあった。
その女は、一つの山と変わらぬサイズがあったのだから。
それが、背中を見せて座り込んで来たのである。
彼女は、それと意識することもなく、背後に無造作に倒れこんだ。
ベッド全体に、激震が走った。
彼は、立っていられずに、その場所に昏倒した。
しかし、すぐに、意識を取り戻した。 立ち上がった。 毛布を掴んだ。
彼女の巨大な左脚が、頭上を大きく旋回していた。
ゴールを、わずか数百メートルの彼方に、目にすることができた。
その場所に辿り着かなければ、今日ここにいる意味がない。
自分を励ました。 計画の実行に、無我夢中になっていた。
彼女は、座り込んだ。 彼のいる場所の毛布の、両側を掴んで引っ張った。
彼は驚くべきスピードで、北の方角に運搬されていった。 全力で、毛布を掴んでいた。
彼女の膝が、太ももが、そして下腹部がうなりをあげながら、眼下を通り過ぎていった。
彼は、手を緩めた。
ちょうどいいタイミングで、彼女の左の乳房の南半球に、飛び降りていった。
彼女の胸に向かって、優に数十メートルの距離を、落下していった
呼吸を取り戻すまで、たっぷり一分間というもの、その場所で喘いでいた。
肌の擦り傷が、自分自身の力で、すみやかに治癒していくのを感じていた。
あたりは、闇に包まれていた。 彼女は、毛布を顎の辺りまで持ち上げるのだ。
急がなければならなかった。 情況が、飲み込めていた。
振り向いた。 そして、乳房が鳴動するのを感じていた。
それから、丘を駈け下りた。 さらに早足になった。
目的地までは、百メートル余の距離だった。
* * *
容易な旅ではなかった。 たとえ、その距離を二分足らずで走破してしまったとしてもだ。
彼女は、寝返りを打つというような大きな動作は、まったくしなかった。
しかし、彼女にとっては、肉体のほんの微妙な動きに過ぎなくても、
彼にとっては、その上から弾き飛ばし、転落させる危険性を濃厚にはらんでいた。
絶え間なく大地震が発生している台地を、行くようなものであった。
臍の穴の脇を通過するときには、自分が愚かなだけなのか、それとも、本当に気が狂っているのか、
良く分からなくなっていた。
しかし、そこから幾らも行かない内に、自分を掻き立てて止まない、あの匂いを鼻孔に捉えていた。
すぐに、まばらな髪の森に入っていた。
このようなものを、至近距離で目にしてから、もう長い時間が経っていた。
ついに運命の土地に辿り着いたのだった。
厚い肉の壁が、ゴールを取り巻いている。 そのことを、触覚で直接に感じていた。
一方の崖の壁に、手の指で捕まるようにしながら、ゆっくりと、注意深く、
自分自身の身体を内部に下降させていった。
両足がそこに触れた。 今までの何ものにも似ていない、咆哮を遥かに耳にした。
それは、すぐに小さくなっていった。
しかし、彼女自身の肉体が、今日、彼が感じたどんなものよりも、激しい切迫した反応を示していた。
それは、そこだけでも、彼自身の全身よりも大きかった。
ほとんど身長の二倍の直径があった。
これに対して、どこからどんな風に、ことを始めたらいいのか。 まったく見当が付かなかった。
単純に、本能の命じるままに行動した。
自分自身の肉体で、その上に覆い被さるようにして、倒れこんでいった。
反動を付けて、強く全身を密着させていった。
それは、歓喜のあまり震えていた。 彼も同様だった。
それに、腰を擦り付けていった。 渾身の力をこめた。
自分を取り囲む全世界が、不安に振動するのを感じていた。
しかし、ここで止めることは、不可能だった。
もう自分自身のクライマックスが近いことを感じてもいた。
遥か下方の肉体の内部で、何かが起ころうとしている不穏な物音を、耳にすることが出来た。
それから、いきなり全世界が狂った。
彼のいた限られた世界が、より広大に、広がっていった。
巨大な何本かの指によって、周囲を取り囲んでいた肉の壁が、押し広げられているのだ。
彼が達したちょうどその時、世界が上昇を開始した。 その場所に捕まろうとした。
しかし、クリトリスは自然な分泌物によって、すでに十分に滑り易くなっていた。
大地の割れ目の内部に向かって、落ちていった……。
このタイミングは、彼にとっては、それほど好都合というものではなかった。
6メートルの長さのある肉の壁に、捕まえられたのである。
膣の裂け目深くに、引きずり込もうとしていた。
彼には、すぐにそれと分かった。
彼女の人差し指だった。
内部に、彼とともに押し入ろうとしているのだった。 指が撤退していった。
しかし、またすぐに再び押し込まれていった。
温泉のように熱い液体が、内部から大量に噴出した。
彼をその場所から押し流した。
それまでに、何度も同じ行為が繰り返されていた。
彼は、ざあっと大陰唇の外側にまで、流されていた。
全身が、濡れ鼠になっていた。 それでも、気分は爽快だった。
しかし、不運なことには、そうと考えている以上に、強力な愛液の洗礼を大量に浴びていたのだ。
女陰から、上に這い上がっていった。
茂みの内部、一、五メートルぐらいの場所にまでは、かろうじて辿り着くことが出来ていた。
しかし、もうそれ以上には、まったく動けなくなっている自分を発見していた。
粘着性のある分泌物が、さらに硬化するまでに、身体を反転させることが出来ただけだった。
背中を下にした状態だった。 仰向けになって、頭上の毛布を見上げていた。
彼女が眠りにつき、すべての光が絶えた。
その後も、長い間、そのままの姿勢でまんじりともできずに、横になっていた。
朝が来れば、彼女がシャワーを浴びるだろうことが分かっていた。
それは、自分にとって一巻の終わりになるのだ。 彼は、死ぬであろう。
しかし、不思議に、死の恐怖は、まったく感じていなかった。
感じていたのは、ただ一つのことだった。
明日、何が起こるにせよ、今日のことは、十分にやる価値があったということだった。
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完全なる人間
第2章・完