教 訓 (第2章)
アストロゲイター・作
笛地静恵・訳
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2・修理
次の日も、いつもと同じように退屈に過ぎていった。
シンディーは、早朝から外出して留守だった。
帰りは、遅くなると言っていた。
シンディーの両親は、外国での仕事が多い。
家には通いで黒人の家政婦が、一人来るだけだった。
シンディーは自分の寝室には、絶対に使用人を入れなかった。
彼は、ただ金魚鉢の底に独りぼっちで、座っていた。
今日は、いつもの相棒である朝食の残り物もなかった。
シンディーは、彼が食事を終えるとすぐに、お皿を取り上げてしまったのだった。
昨日、彼が入れられている水槽の中から、お皿を梯子代わりに使って、
逃げ出そうとしているところを、見つかってしまったのだ。
あれは、致命的なミスだったのだろうか?
何かに、気が付いているのだろうか?
シンディーは暗くもあれば、深くもある性格の女性だった。
彼が、そうであって欲しいと望んでいるよりも、ずっと頭の良い女性であることに気が付いていた。
ミロは、その場所に座り込んだままだった。
何か、気分を転換させるためのものが欲しかった。
弁護士として仕事をばりばりと現役で熟していたころの、
あのブリーフケースを何度となく妄想していた。
彼は、自らの出世の道を、自分の手で築き上げていくようなタイプの男だった。
法曹界でも、輝かしい未来の活躍が約束されていた。
突然、それらの夢のすべてが潰えたのである。
あのいまわしい縮小光線銃を持った女たちが、全世界に溢れたのである。
彼は、自分を縮小した女の顔をいまでも、思い出すことができた。
それは、旧知の誰かだった。 同一の法律事務所に、勤務していた女の一人だった。
彼女に好意を持った。 彼女も自分に、好意を持ってくれていると判断していた。
二回、夕食をともにした。 しかし、それから、どこに行くと言うのでもなかった。
まだ友人の一人と、考えていたからである。
縮小光線銃を彼に向けて、引き金を引こうとしている女の満足感に溢れた、
何かに飽食した獣のような醜悪な表情を、いまでも戦慄とともに思い出すことがある。
それは、苦痛を伴う思い出だった。
ミロは、頭を振った。 心に燃え上がる熱い怒りの炎を、鎮めようとしていた。
その時、玄関のドアの閉まる轟音を耳にした。
あのずしん、ずしん、ずしんというシンディーの重低音の足音が、
玄関から急速に接近してくるのだった。
彼女の笑顔が、上空に現われていた。
「気分はどうかしら。ミロ?」
そう質問してきた。
「今日は、すてきな一日だったかしら?」
「長い一日だったよ。 でも、いまは、君が帰って来てくれたから、気分が良くなったよ」
これは、嘘ではなかった。彼女の顔を見られて、本当に嬉しかったのである。
「お腹は、空いてるかしら?」
彼女は、背中に何かを隠すようにしていた。
「そうだね」 彼は、認めた。
「朝食から、もうずいぶん時間が、経っているからね」
「何か、夕食を作って来てあげるわね」
部屋から出ていこうとして、また彼の方に戻って来た。
「ああ、ところで、私、あなたに、ちょっとしたお土産があるのよ」
背中から、片手に持っていたものを取り出していた。
前方に差し出すようにしていた。 片手の中には一隻のヨットがあった。
それは、あの「ソフィアL号」だった。
「君は、見付けて来てくれたんだね!」
そうして、ボートを首を曲げて見上げるようにしていた。
「信じられないよ」
「私、何かのダメージを受けていないか、心配なのよ。
それは、もう何週間もずっと係留されたままそうよ。
ドックの壁に、何度か船体を、ぶつけていたんじゃないかと思うの。
ともかく、私はそれを縮小してから、釣り竿のリールを巻いてたぐりよせたの。
あなたのもとに、持ってきてあげたのよ。 ミロ」
左手から、縮小されたボートを出していた。
柔らかい胸元の前で持ちなおしていた。 水槽の内部に下ろしたのだった。
丁寧に優しく「ソフィアL号」を降ろしてくれた。
それから、シンディーは身長百メートルの巨体をまっすぐにのばして立ち上がっていた。
ミロは、全長15メートルの外洋航行用の大型ヨットの周りを、
巡回するように一度、ぐるりと回っていた。
ダメージを調べていたのだった。 特に船底のボトムの部分の割れの状態だった。
ハル(艇体)とデッキの部分を接合するガンネルまでの調査を終了していた。
剥がれてはいないようだった。 少なくとも、そんなにひどくは。
シンディーを見上げた。
「それほど、ひどくはないようだよ。
僕は、これを修理できると思うよ。
……もし、僕でも使える道具が、あればの話だけどさ」
シンディーは、声に出して笑っていた。 しゃがみこむと、彼の腰を摘んだ。
捕まえられたことに、びっくりしていた。 ミロは、抵抗して身をくねらせていた。
しかし、シンディーは何も言わずに「ソフィアL号」の甲板のコックピットに彼を下ろしたのだった。
「ボートの中には、普通は道具箱が、積み込んであるものじゃないかしら?
それも、一緒に縮小されたと思うのよ。
もし、他に、何か必要なものがあったら、遠慮なく教えてね。
なんとか、調達して来てあげるから」
ミロは、顔を真っ赤にしていた。これは、彼のボートなのだ。
自力で組み立てた愛船だった。 それも、縮小されているのだ。
彼と、同様な比率に。 彼のものであることに、変わりはなかった。
かつてと同じように、そのデッキ(甲板)に立っているのは、悪い気分ではなかった。
「ありがとう。 シンディー」
彼女を見上げて、笑っていた。
「とても、感謝しているよ」
「これで、あなたにも、一日中、やることができたでしょ?
そのボートのために、働くことができるわ。
修理が完了したら、スイミング・プールの中で、動かすこともできるわよ」
「そうだ、そうとも」
ミロも、賛成していた。
「こいつは、おもしろいことに、なりそうだぞ、とっても、楽しくなってきたよ」
シンディーは、夕食を作りに行った。
そして、食事の後でプールにいって、一緒に泳ぎましょうかと、誘って来た。
「いや、今夜は遠慮しとくよ。とても忙しいからね」
すでに、熱中して働いていたのだった。
「ソフィアL号」の船腹に積んであった、修理用の厚板をカットしていた。
口元に笑みが浮かんでいた。
3・教訓
ミロは、「ソフィアL号」の舵輪の後に、座っていた。
シンディーが、いつものように全裸になって、水着に着替えるのを見守っていた。
彼は幸福だった。 本当に幸福だった。
すぐる一週間というもの、この幸福な感情は、ずっと持続していた。
縮小されてから初めてのことだった。
その間ずっと、「ソフィアL号」の内と外で忙しく働いていたのだった。
一呼吸ごとに、その瞬間を楽しんでいたといっても良いだろう。
今も、シンディーの着替えを待っているこの一時、一時が、甘味だった。
その時を満喫していた。 彼自身は、ヨットに積んであった愛用の、
真紅に白いラインが脇に流れる、ウェット・スーツを着ていた。
長袖、長ズボンのオーダーメイドのものだった。
下には、水着の海水パンツ一枚だけだった。
黄色いライフ・ジャケットをその上に付けていた。
「準備は、できたかしら?」
シンディーが、遥かな高みからそう尋ねてきた。
ミロは、頭上を見上げて両手を振っていた。
「彼女を出航させよ。 造船所主任よ」
彼は、微笑しながらそう言った。
シンディーは、海のような紺青色のワンピース・タイプの水着を着ていた。
十八歳の彼女も、またすばらしかった。 まったく美しい少女だった。
ミロの目には、巨人の女として見えることで、
その美には、さらに崇高といっても良い威厳が加味されていた。
彼女としては静かに、そうっと上体を傾けていた。
「ソフィアL号」をゆっくりと持ち上げていた。
両手で豊満な胸元に、優しく抱くようにしたのだった。
ヨットよりも何倍も巨大な肉の山だった。
周囲が、五十メートルを越えるバストだったのだ。
ミロにとって夜には重労働の登山をしなければならない、恐怖の山々だった。
が、今日は、なぜかひどく美しいものに見えた。
全長15メートルのボートを乳房の山の前に、捧げるようにして持っていた。
シンディーにとっては、全長三十五センチメートルの模型の船だった。
船底の前のバウと、後のスターンの部分を両手に乗せるようにしていた。
彼が注意した通りだった。スターンのラダー(舵)には指を触れないように、
特に気をつけているのが、ミロにもわかった。
ゆっくりと広大な家の中を通り過ぎて行った。
戸外のスイミング・プールへと運んでいった。
ミロは、この航海が、気分を引き立たせるような爽快なものであることに気が付いていた。
まるで「空飛ぶ船」に乗っているような気分にさせてくれていたのだ。
ウィリアム・バローズの、あの『火星』シリーズの中に出てくる、
飛ぶ船「バルスーム」そのもののようだった。
シンディーが緑の芝生のなかの庭の白いプールに、ずしんずしんと近付いていく。
水面に陽光がきらきらと反射していた。
ミロの心のなかに聞き慣れた警鐘が、鳴り響きはじめていた。
シンディーは、いたずらが大好きなのだ。
芝生の地面までは遠かった。
シンディーの下腹と腰、それに長い長い少女の素足が、
地上まで先端にいくほど細く小さくなって見えた。
遥かに延びていた。 めまいのするような光景だった。
「落とさないでくれよ」
彼は、そう懇願していた。
「ゆっくりと、ヨットと僕を降ろしてくれなくちゃ、だめだぜ。
どの厚板からも、水漏れさせたくないんだ」
「心配しないでいいわ」
シンディーは、請け合ってくれた。
「どうすればいいのか、私にはよくわかっているつもりよ」
彼女は、プールの底が傾斜している浅い側から入っていった。
ゆっくりと、ゆっくりと。 水のなかに、一歩一歩降りていった。
幼児でも遊べるように、一方の側が浅くしてあるのだった。
それから、さらに、ゆっくりと。 さらに水深のある方向に進んでいった。
水が、彼女の腰の深さにまで来た。
ボートを水の上に、優しくそおっと浮かべたのだった。
「錨を上げて。 出航よ、船長さん」
笑いながら、そう言っていた。
ミロは、風の状況をチェックしていた。
前かがみになりながら、三角帆を定位置に張った。
マストの前に展開する小さめのジブ・セイルと、それから、
マストにメインとなるセイル(帆)を掛けた。
最後が、フリー帆走の時のみに使用する、丸くて細いスピンネーカーというセイルを、
ロープ・ワイヤーを調節しながら張っていった。
ハーバーからの出艇ではない。
桟橋にぶつかる心配はない。 ゆとりがあった。
シンディには、穏やかなそよ風が、プールの表面を吹き過ぎていっただけだった。
ミロにとっては、海の上の風と同じに新鮮に感じられた。
プールのちっぽけな小波が、「ソフィアL号」を力強い海の波と同じように、上下に揺さ振っていた。
シンディは、その光景をおもしろそうに、笑みを浮かべて見下ろしていた。
アビーム(横風)の方を向いた小さなヨットは、風を帆いっぱいに孕んでいた。
滑らかに航行を開始していた。 ミロは、両手に、船の舵の抵抗を感じていた。
的確な操船技術によって、魔法のように風の流れと波を切っていった。
滑るように進んでいった。
中腰になったインクライン(艇の外側に傾いている)・フォームの腰の筋肉が
緊張するような抵抗感が、心地よかった。
顎を引いて、頭を垂直に保っていた。脇を締めて、両手を揃えて膝の上に置いていた。
膝を揃えて、足先を手前に引き寄せていた。