戦争ごっこ |
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間違いようがない。彼だった。意識を回復するのを、じっと待っていた。 |
爪を顔まで移動している間に、失神してしまったのだ。 こんなに小さいのだ。さぞかし、恐かったことだろう。死んでしまったのではないかと、心配でならなかった。だから、立ち上がって手を振ってくれた時には、本当にうれしかった。 * 三分後。彼は、意識を回復していた。自分が、どうして転落死から免れたのか分からなかった。彼女が彼を凝視していた。何とも形容ができない穏やかな表情を浮かべていた。たぶん、ビルもジャスミンと同じような顔をしていたことだろう。ただ彼の場合は、ここに辿り着くまでの、旅路の苦難と恐怖のために、強ばっている皮膚の下に隠れているだけのことだった。 長い年月、引き裂かれていた恋人たちが、ついに運命的な再会を果たしたのだ。 * ジャスミンには、どうしてビルが友人のルーシーの叔父の別荘の庭で、こんなに小さくなっているのか分からなかった。緑色の服装からして、最近、男の子の間で流行しているという、あの身体を縮小しての「サバイバル・ゲーム」でもしていたのだろうか。まあ、いい。後で話を聞けば分かることだ。 彼女は、ビルに安全な隠れ場所を用意する必要があった。いたずらなルーシーに見つかったら、何をされるか分かったものではなかった。彼女は自分が、いつかはこの日が来ると、分かっていたような気がした。ずっと準備していたのかもしれない。ポーチ・バッグの中に、あれがあった。 * 彼女の自由な方の手が、頭の後に回されていた。彼は耳障りな轟音を聞いていた。何かを探しているような様子だった。そして、あれが登場したのだ。 ジャスミンにとっては、青い小さな箱。彼にとっては、青いビル一個分の体積のある物体。 青いヴェルベットの布が、箱の内と外に張ってある。良く知っている。ビルがプレゼントしたものだったからだ。アンクレットが入っていた箱だった。 彼女は、親指の爪先だけで、箱の蓋を開いた。それだけのことだったのだ。が、彼は、その凄まじい力の誇示に身体が震えるのを、押さえることができなかった。彼の視点では、親指の爪の力だけで、ビルを二つに割るような超絶的な芸当だったのである。 箱の内側も、すべて柔らかい青のヴェルベットで覆われている。ゆっくりと、ことさらに、ゆっくりと、彼女は爪先を下降させていった。 彼は、その上から飛び降りた。豪華な絨毯のように、ふかふかの床だった。毛足の中に埋没してしまいそうだった。 ともあれ、これで安全だった! 自分の身の安全が確保されたのでビルは、いきなりアルのことを思い出していた。仲間が彼女の臍の中で待っている。そのことを伝えなければならない。 しかし、ちょうど、その時、ジャスミンの身体が、いきなり動きだしたのだった。 動きからして、彼女が座る態勢になるようになろうとしている。上半身を持ち上げているのが分かった。 彼は、ヴェルベットの上を転がっていた。 「ジャスミン。だめだ!やめろ!やめてくれえ!!」 絶叫していた。手遅れだろうか? ビルはヴェルヴェットの青い壁に四方を包囲されている。 外界を見ることは不可能だった。しかし、彼には分かっていた。座る姿勢になるということは、腹部の筋肉が緊張するということだった。上半身が起き上がれば、臍の穴はきつく閉ざされる。彼は、息を飲んでいた。 アルに生存の見込みはなかった。どうしようもなかった。 今では、主導権はジャスミンに移ったのだ。 すぐに、彼女は青い箱を左の耳元に移動してくれていた。 ビルには、言わなければならないことがあった。 「ジャスミ〜ン!聞こえるか〜!?」 軽いうなずき。彼にとっては、荒々しい振動。 「ああ。ジャスミン、ありがとう。もう駄目だと思った。でも、ジャスミン、まだ仲間がいる。君の臍の中だ!」 ジャスミンが、パニックを起こしたようだった。急速に動いていた。間違いようがなかった。大地震が来集した。巨大な箱全体が、下降していた。 ジャスミンが、右手の肘をついている。自分の臍の穴を開こうとしているのだ。 箱も、彼女の手の動きにつれて降下していた。上空に跳ね上げられるように移動した。 箱の上の四角い空間に見えるのは、巨大な少女の一部分に過ぎなかった。横顔。左の耳。髪の毛。今のは、左の乳房。乳首。遥か彼方に、膝頭山脈の一部。 彼女が身体を静止させていた。箱も止まった。ヴェルベットの床の上で、彼の回転も停止していた……。 ジャスミンが、青い箱を臍の脇に下ろしたのだ。静かに傾けてくれていた。 ビルは、青い壁を駈け下った。縁から外に飛び出した。臍の穴に駆け出していた。巨大な穴の中を覗き込んだ。 何も見えなかった。誰もいない。 臍の周囲を探索してみた。すぐに立ち止まっていた。陰毛の森の方向に少しだけ下った所。血の滲んだ赤い挽肉の固まりがあった。すべてを物語っていた。 たぶん、アルも臍の穴から、ジャスミンの顔に浮かんだ微笑を見ただろう。計画が成功したと安心しただろう。安堵したはずだ。臍の湖水の中で、ビルの帰還を待っていただろう。 突然の変化が、彼を見舞った。 赤い固まりの中では、骨の存在さえ、もう完全に見分けが付かなかった。アルのために、黙祷した。 恐怖と悔恨の場所から、ビルは一刻も早く立ち去ろうとしていた。 彼を驚かせたのは、青い箱がすぐ背後に立ちふさがっていたことである。彼の帰還を待ち構えていたようだった。もちろん、ジャスミンが、ビルの行動を逐一、見張っていてくれたのだろう。 箱の青い壁を内部に登っていった。 箱の上空に、彼女の悲しそうな表情が覗いていた。事態を悟ったのだろう。 箱が、また左の耳元に運搬されていった。まだ重要なことがあると推察したのだろう。ジャスミンは、昔から利発な少女だった。 「ジャスミン!」 ビルは、喉が潰れそうになるまで、出るかぎりの大きな声で絶叫していた。 「まだ、仲間が三人いる!君の友達の注意を引こうとしている。一、二時間前。右足のビーチ=サンダルの近くに、いた。助けてくれ!お願いだ。説明は、後で、ゆっくりする……」 もう一回、うなずきが箱を揺らした。空中のどこかから、青い蓋の部分が雄大に出現していた。彼女の顔の表情と投げキスが、もう何も心配はないからという、明確な信号を送ってくれていた。 「あとは、あたしに、まかせてちょうだい!」 ジャスミンは、そう約束してくれているのだ。 蓋が閉じた。ビルは、爆風に吹き飛ばされていた。轟音とともに、辺りは暗黒に閉ざされていた。 移動の感覚があった、地下鉄が通過するような轟音。ファスナーが開かれたのか?バッグの中にでも、いれられたのだろう。 ジャスミンの雷鳴のような声が、箱自体を振動させていった。 「ねえ、ルーシー。あたし、何だか喉が乾いちゃったわ。アイス・ティーか何かを持ってきてくれないかしら。あたしが、行っても良いんだけど、叔父さんの別荘のキッチンって、中がどうなっているのか、良く分からないのよ……」 寝呆けたような声が答えた。 「……ううん……ああ、そうよね……。いいわ……、わたし、行ってくる……」 ルーシーが遠ざかっていく。振動も弱まっていった。 ドアが、ガチャリと開く。またバタンと閉まる。そんな音が聞こえた。 ビルの愛するジャスミンの可愛い声がした。 「みんな、良く聞いてね。これが最後のチャンスよ。ルーシーに、あなたたちの、存在を知られちゃ、絶対に駄目!彼女は、男にとっては名前の通り、悪魔ルシファーよ。なにしろ男って生き物が大嫌いなの。分かった瞬間。叩き潰されるか。踏み潰されるか。どっちかよ。だから、急いで隠れてちょうだい。 あたしは、自分の口紅を、右足のミュールの脇に置くことにするわ。偶然に出ちゃったようにしておく。それに、よじ登ってちょうだい。たぶん、油脂の力で、自然に表面に張りついていられると思うの。後で。救助してあげる。そんなに、時間はないと思う。ルーシーが、あと一時間も、炎天下で身体を灼かれながら、我慢して寝ているとは思えない。そろそろ、帰ろうとするに違いないから!」 箱が揺れた。ビルは、横に倒れこんでいた。ジャスミンが、バッグから口紅を取り出そうとしているのが分かった。 戦争ごっこ 4・乳首山頂 了
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